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2024年03月17日06:46

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世界の原理

 中動態の世界「意志と責任の考古学」國分功一郎氏の本では以下のようなことが書いています。能動「私は打つ(tu'p-to(私は打つ」と受動「tu'ptomari)=「私は打たれる」という文で行為者8動作主の原理を知ることができる。われわれは能動態と受動態をもち、それらがいずれも過去や完了や現在や未来などの時制に活用するという漠然としたイメージをもっている。主語は述語を経験している。脳内で起こるすべて意識できるはずがないのだから、洗濯が意識されることよりも前に脳内で何らかの活動が始まっているのも当然である。なぜならばわれわれは純粋で絶対的な始まりなど考えることはできないからである。一人一人の精神の中に純粋で絶対的な始まりがあるなどと主張することは少なくとも哲学的には極めて困難である。こうしたことを考えると「意志など幻想だ」ということがわかる。
 スピノザの方法(國分浩一郎氏著)には以下の記述がある。「メタレヴェルの観念(idea)の世界には神の不動性(円モデルの中心にある不動の一点)と「観念(対象)の世界」(ideatum)があり、これは「形相的実在性」=「世界の在り方」を示す。「真の方法は、観念の獲得後に真理を求める方法」である。ここには「いかにして観念を獲得するか」という道がある。「真理の方法は、真理そのもの、ある諸事物の想念的本質(vea Methodus est via ispa ut vieries aut essentiae objectivae rerum .ideae debito ordine quaeranur)或いは諸々が適当な順序で求められる道である。」これは接続詞(ut)の=(先行する名詞や特質を説明する従属節=いわゆる「説明のモデル」である。
そこで説明されているのは、via(道9という名詞である。何よりもまず需要なのは、この道は真理に至る道ではない。諸観念がひとつひとつ獲得されていくことの連なりとして描かれている線そのもの=これが道と呼ばれるものである。すなわち「方法」とは「事物の下人を理解するために数論すること」である・その規範(モデル)に従って理解するように精神を制御すること=またその補助手段として確実な諸規則を与えかつ、精神を諸々
の無益なものから煩わされないように配慮することである。観念がまた別の観念の対象(世界)となり得るであろう。
 「さらに」=「である」=「est」=「ねばならない=「debet」=向きを変える・引き直す=動詞の「revertere」ということがわかる。スピノザ=國分功一朗によると、精神の指導(ガイダンス)と制御(コントロール)が「賢者としての道」である。『エチカ』は幾何学的公理で書かれたもので、自己原因(神)から世界の誕生をを解く学問である。自然を形成する神のモデルは國分功一郎によれば「神人同型論」ー(アントロモルフィズム)というものである。私はこれに倣って「神型同型論」とする。つまりスピノザの神は人格神ではない。連結(concaenaio)とは文法上の規則で、「全自然に対応する観念」を意味する。こうした賢者の道は「異形の神」を明らかにし、精神を機械化することによって得られる知見である。
 こうした世界と宇宙の理解の仕方もある。

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