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2024年03月13日08:26

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「密林奇談 クマオンの人喰い虎」

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めて小説家・吉村昭の作品を読んだのが『羆嵐(くまあらし)』だった。1915年(大正4)12月、北海道苫前三毛別六線沢の開拓村が巨大な羆に襲われ、多くの犠牲者を出した「日本獣害史最大の事件」を描いた小説である。本州から入植した開拓民たちが羆の生態を知らなかったことから、次々に襲われて被害が拡大した悲劇の事件として有名だ。吉村昭の感情を抑えた、無駄のない精緻な文体が現場の生々しい様子を活写しており、私は大きな衝撃を受けた。以来、獣害事件に興味をもち、様々な書籍・史料を読んできた。時々、羆や狩猟についての日記をアップすることから、マイミクのJ.Rさんが良書をご推薦くださった。1930年代、北インドのクマオン地方で多くの人喰い虎を倒した英国人狩猟家ジム・コーベットの『密林奇談 クマオンの人喰い虎』だ。1959年(昭和34)刊行で、その後廃版となって現在に至る。当時定価320円の本書が今でも中古書籍市場に流通しており、4千〜5千円で手に入るとのこと。博覧強記のJ.Rさんが幼少時代から繰り返し読み続けている愛読書と聞けば、読まずにはおれない。さっそく、入手した。手元に届いた本は案外きれいな状態だったが、やはり65年の歳月を重ねているだけに、まるで古文書のように劣化している。気をつけて頁をめくらないと千切れてしまいそうなほど脆くなっていた。しかも、判型がA6版と小さい上に頁は二段組で文字が細かい。老眼の身としてはルーベを使わないととても読み進めることができないのだった。おかげで出先や電車移動中の読書は不可能。なんとも、ハードルの高い判読作業となったが、その驚くべき内容にたちまちハマってしまった。

 何といっても、実際に人喰い虎と対決するジム・コーベット自身の筆によることが本書の強味だ。詩的な文学表現はなく、簡潔で明瞭な文章だ。伝聞や想像では絶対に書くことができない、豊かな臨場感と緊張感に充ちている。しかも、単に「人喰い虎を追跡して倒す」凡百の冒険談に終わっていないのは特筆すべきだろう。虎の生態だけでなく、虎と生活圏を共にするクマオン地方の人々の姿をコーベットは詳細に描き出している。元来、虎は人間を襲わない。この世に生まれながらの人喰い虎は存在しないのだ。むしろ、虎は人間を恐れ、避けているのだという。しかし、怪我や老化など一定の条件が重なると、虎は必ず「人喰い」になる。障害が残るほどの四肢の怪我、犬歯やツメの欠損、病気や老衰により野生動物を狩ることができなくなれば、空腹のあまり人を襲う。人間は臭いにも気配にも鈍感だ。弱く、脆く、足が遅い。鋭いツノもツメも牙も持たず、反撃らしい反撃もしない非力な動物だ。ひとたび、人喰いになった虎は人間を恐れなくなり、人間を「簡単に捕食できる餌」と見なす。犠牲者はたちまち増え続け、人喰い虎が出た地方は恐慌状態となって、一切の経済活動が停滞してしまう。住民たちを惨状から救うため、地方の管理官は「人喰い専門のハンター」として高名で、数々の実績をあげたジム・コーベットに人喰い虎駆除を要請。現地に赴いたコーベットは自分が追跡する虎がなぜ人喰いになったのかを探り、その理由を全て明らかにしていく。そして、人間のミスによって、虎を不幸な人喰いにしないためにはどうすべきかを説くのだ。

 『密林奇談 クマオンの人喰い虎』を読み進めていくと、これは敵の狙撃兵(スナイパー)を専門に倒す狙撃兵の戦記(カウンタースナイピング)にとてもよく似ていると気がついた。相手が反撃して来る可能性のない鳥射ちや鹿狩りなどとは違い、人喰い虎を追跡するコーベットを人喰い虎もまた「獲物」として、彼を追跡し襲撃するチャンスを狙っているからだ。人喰いになった虎は、普通の虎と行動パターンがまるで異なり、極めて危険な存在である。出動要請があった土地に到着すると、コーベットは住民たちの報告を聞き、実際に人々が襲撃された現場を検証。虎がどこに潜んで犠牲者の様子を伺い、飛び掛かって、どの方向に連れ去ったのかを探る。そして、最終的に虎が獲物を殺し、食べた場所を突き止め、亡骸を検死する。驚くべきは、コーベットが虎の足跡から個体の年齢、性別、体格、身体のどこにケガを負っているかさえ読み取ってしまうことだ。もちろん、個体の識別も容易で、普通の虎か、追跡している人喰い虎かも判別する。そして、虎の追跡を続けるうち、虎が密かにコーベットを監視し、自分のあとを追跡していることを察知する。正に、命がけの知恵比べだ。狙撃兵同士の対決と言って良い。先に油断した方が相手に殺される、スリリングな展開である。生還して著書を残しているのだから、いずれの戦いでもコーベットが勝利したことは間違いない。しかし、その時、その場で彼が何を考え、どう行動したのか、実に生々しく伝わって来るのだ。見事である。コーベットの行動で感心するのは、虎の気配を感じれば警戒し、そうでない場合は普通に追跡したり、休憩したりしていることだ。四六時中、虎の脅威に備えているのではなかった。これこそがプロのプロたる所以だろう。そうでなければ心身共に参ってしまい、人喰い虎の逆襲に遭うに違いない。

 忘れてならないのはこの実話物語には、人喰い虎の被害に遭った人々に対する、コーベットの愛情深い眼差しが感じられることだ。1頭の人喰い虎が数10人、中には400人以上を殺害した「チャンパーワットの人喰い虎」の例もある(正式記録436人、実際はもっと多いといわれている)。人喰い虎の犠牲になった現場の検証、亡骸の検死から「虎に襲われた人々の最期」がどのようなものだったか、コーベットは詳細に描く。つい先ほどまで生きて働いていた人間が無惨な肉塊と化していたり、わずかな骨片を残して喰い尽くされている惨状に「生活圏に虎が棲息する悪夢のような現実」が浮かび上がる。人喰い虎に対抗する手段を持たない一般の人々がどれほど恐ろしい日々であることか。「人喰い虎を倒す」という使命に留まらず、人喰い虎を駆除することで穏やかで平和な暮らしを取り戻してやりたいという真摯な思いが本書にはある。ちなみに、ジム・コーベットはイギリス・インド両国で尊敬されている。後半生は絶滅に瀕したベンガルトラの保護を精力的に推進し、ウッタラーカンド州には彼の名前がつけられたジム・コーベット国立公園がある。

 残念ながら、本書には地図類が一切掲載されていない。いかなる地形を彼が探索し、対決の場がどんな場所なのかを読者は全て文章から読み取り、想像することが求められる。地図はないが、躍動感のある素晴らしい挿絵が掲載されており、これが現場の空気感を伝えてくれる。これだけの良書がなぜ廃版になったままなのか、不思議でならない。ご推薦いただいたJ.Rさんにはあらためて御礼申し上げる。ありがとうございました。

 最後に、本書でコーベットが語る教えを抜き出し、箇条書きにしておく。いつか、人喰い虎を追跡して対決せざるをえないような事態に遭遇したら、ぜひ活用していただきたい。

1.人喰いになった虎は人を恐れなくなる。昼間に襲撃し、食べ残した獲物を昼間食べにくる。豹は人喰いになっても人への警戒を緩めない。夜間襲撃し、食べ残した獲物を食べに来るのは夜間だけである。豹は家屋に押し入って人をさらうが、虎は普通、家屋に侵入することはない。

2.人喰い虎を追跡する時は、必ず単独行動する。武装した素人を同行するのは危険だし(誤射される可能性がある)、非武装の同行者は守ってやらなければならないからだ。とっさの時の判断に同行者のい存在は邪魔になる。

3.虎は必ず風下から襲撃してくる。決して、風上に向かって進んではいけない。移動する時は風上を背にすれば、後方の警戒は軽減される。風向きには絶えず注意しなければならない。

4.虎の動きは、猿や鹿、鳥などの動静によって察知することができる。野生の動物は全て虎や豹などの猛獣の姿を発見すると叫んだり警報音を出したり、飛び出すなど急激な反応をする。野生動物が静かであれば、猛獣は移動していないということだ。ただし、潜んでいる可能性は否定できない。

5.虎の足跡や、獲物をくわえて運ぶ「引き跡」を辿るのは良いが、それだけに集中してはいけない。追跡を察した虎が逆襲しようと待ち伏せている可能性が高い。

6.虎は獲物を狙う時、唸り声や咆哮を上げて自分の存在を獲物に知らせるような真似はしない。風のように敏捷に、音もなく飛びかかる。

7.手負いの猛獣は必ず、一か八かの捨て身の攻撃を加えて来る。その一撃をかわすことができれば、こちらの反撃チャンスである。

8.猛獣を倒した際は、必ず遠くから小石を投げて、本当に絶命しているかを確認してから接近する。

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ジムコーベット チャンパーワット Man-Eaters of Kumaon Edward James Corbett Jim Corbett 
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