飴をなめるという習慣が全く無かったので、コンビニやスーパーなどに並ぶ飴は一体どんな人が買ってるんだろうかと不思議に思っていたのだが、最近ようやくその謎が解けた。というのも僕が飴をなめるようになったからだ。
きっかけは咳が出るようになったこと。べつに風邪をひいてるわけでもないのだが、空気が乾燥すると喉の潤いが無くなってきて咳が出るようになった。そこで咳止めの飴が必要となりヴィックスドロップなどを買ってたんだけど、風邪などの本格的な咳でもないため他の飴でも応用がきくことを発見。で、たまたま榮太郎の黒飴をもらったのでなめてみたらこれが凄くおいしい。ってことで、わざわざ榮太郎の黒飴を探して買ってきた。これは何故かあまり売ってない。
空気の乾燥によって喉の潤いが無くなるってのは要するに老化現象のひとつみたいなもので、若い時代にはまずあり得なかったことだ。全くもってトホホな話だが、死ぬ年齢にどんどん近づいているのだからしょうがない。自分でも気がつかないうちに体はどんどん劣化していく。
にしてもまさか飴が必要になるとは思ってもみなかった。おばちゃんと言われる人種はいつも飴を持ち歩くそうだが、ここに来て僕もやっと理解できるようになった。喉が苦しいので飴が必要なのだ。喉の潤いが無くなるなんて考えたこともなかったな。体の変化にはどうにも追いつけないことがある。
体というのは他人ではなかろうかと昔から怪しんでいるのだが、体も込みで自分であるらしい。自分(心・精神)が何故この体にくっついているのか、さっぱり意味が分からないけど、とりあえず自然がそういうものとして造ったようなので仕方が無い(設計ミスではなかろうか)。体というのは明らかに自然の一部のようだが(意識しなくても心臓は動いてるし血液は流れてるし呼吸してるし)、心というのはそれとはまったく別次元のところにいる。それにもかかわらず体の調子に影響されてしまう。そんなわけで、いつもいつも体のご機嫌を伺って暮らさなければならない。それが本当に煩わしい。
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