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2024年01月23日17:14

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(読書)『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)(その5)

私がmixi日記に読書感想文を投稿するときは、1冊の本につき1件の日記に対応させて作成するようにしていたが、この『ふしぎなキリスト教』は、本当にケタ違いに面白い。このため、1件の日記には収まらない。そこで、数回に分けて感想文を記述したい。この日記は、その第5弾である。

(10)本書には、「なぜ聖霊が必要なのか」という事を解説している部分があり(P247あたり)、大変興味深いので紹介しよう。キリスト教について多少なりともかじったことのある人は、三位一体説という言葉を聞いたことがあるかと思う。これは「神」、「キリスト」、「精霊」の三者が一体のものであると考える考え方で、カトリックもプロテスタントもこの考え方を採用している。キリスト教の教えの中核を成す考え方である。一方、キリスト教の経典が新約聖書であることは言うまでもないが、この新約聖書に述べられているキリスト教の教えの中核部分は、福音書ではなく、むしろパウロ書簡にある。福音書は、生前のイエスがどのような言動を行ったか、それを弟子たちが記したいわば「証言集」である。

 では、使徒パウロは、なぜキリスト教の教えの中核部分を成す書簡集を記述することができたのだろうか。パウロは、神からの預言をうけて書簡を記述した預言者なのだろうか。キリスト教がその母体であるユダヤ教ともっとも異なる点のひとつは、キリスト教には預言者というものが登場しないことにある。ユダヤ教には必ず預言者というものが登場し、その教義の形成に重要な役割を担っている。だが、キリスト教には預言者は登場しない。イエスも決して預言者ではない。イエスと預言者がどのように違うかは、例えば本書のP169に述べられている。預言者は、神から伝え聞いたことを話す。いわば神のメッセンジャーボーイである。だが、イエスは、自分の頭にある思想をそのまま普通にしゃべっている。だから、イエスは決して預言者ではないのである。

 師であるイエスが預言者ではないのに、その弟子(かならずしも直接の弟子ではないかもしれないが)であるパウロが預言者のようにふるまうのは不合理である。つまり、パウロは神からの言葉を聞ける立場にはないはずなのである。であるなら、パウロが書いたとされるパウロ書簡は、なぜキリスト教の教えの中核部分を表す文書たりうるのかという疑問が湧く。聖霊はこの疑問に解決を与えるために導入された存在である。本書の記述を借りて説明すると、次のようになる。

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 そこで、パウロの手紙は、実はパウロの考えではなくて、パウロをそう考えさせた別のものの言葉でなければならない。パウロをそう考えさせたのは、聖霊なんです。聖霊がはたらいてパウロを考えさせ、パウロの手を動かし、字を書かせた。(P247)
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(11)本書の後ろ1/5あたりは、なぜキリスト教社会だけが突出して近代化できたのかという問題について考察が展開されている。橋爪氏によると、社会が近代化できるかどうかの大きなカギのひとつは、新しい法律を自由につくれるかどうかだという(P276)。例えばなにかビジネスの世界に新しい仕組み(例えば、銀行、利子、小切手、手形など)を導入しようとした場合、ユダヤ人やイスラム教徒がまず考えることは、そういった新しい仕組みを導入するための立法措置をとるにあたって、ユダヤ法がそれを許しているか、イスラムの経典がそれを許しているかといったことを考える。

 ところがキリスト教徒の考え方は、まず自分たちは何をやりたいか、その目的を同定する。そして宗教の教えに照らし合わせて、禁止されていないかどうか。もし禁止されていないならば「できる」、「やってもよい」と考える。ここには明らかに「作為の契機」がある。「作為の契機」については、中山治著『日本人はなぜ多重人格なのか』(洋泉社)のP205あたりを参照されたい。キリスト教徒は目的を考え、手段を考え、実現までのロードマップをつくる。ポリシー・ペーパーとかマニフェストとかいったものは、キリスト教徒流のやり方だという。

【関連項目】

(読書)『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)(その4)

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