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2024年01月22日15:42

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(読書)『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)(その4)

私がmixi日記に読書感想文を投稿するときは、1冊の本につき1件の日記に対応させて作成するようにしていたが、この『ふしぎなキリスト教』は、本当にケタ違いに面白い。このため、1件の日記には収まらない。そこで、数回に分けて感想文を記述したい。この日記は、その第4弾である。

(8)本書のP120に、「意識レベルの信仰と態度レベルの信仰」という節がある。ここで、著者の一人、大澤氏が、大学で宗教や宗教社会学について講義等しているとき、学生が、「(宗教を)信じている」という心の状態をなかなか思い描きにくいらしいということを言っている。このことは、恐らく大学生だけでなく、そもそも日本人全体について言えることだろう。すなわち、日本人にとって「(宗教を)信じるということはどういう心の状態になっていることを指すのか」ということがよくわかっていないのだと思う。このため、「信じる」とは、例えばキリスト教なら聖書など、仏教なら仏典などに書いてあることを教条主義的に信じることが「信じる」ということなのだ、という短絡的なイメージを抱く場合がしばしばあるのだと思う。

この「信じる」ということへの理解への悪癖を多少なりとも是正するために、大澤氏は、信仰心を「意識レベルの信仰」だけではなく、「態度レベルの信仰」も信仰心の形態としてありうるのだ、むしろこちらのほうが大切なのだ、と考えることを提唱している。これはとても参考になる考え方であると思う。

この場合の「態度レベルの信仰」への理解とは、例えばユダヤ教やキリスト教、あるいはその他の宗教的伝統がどういう態度をつくったかということを知ることを通じて、信仰心への理解と共感を持つことを指す。これだけ読んでも、日本人にはなお理解できない場合はありうる。私はその理由を、日本人の「態度」という言葉の理解の不足にあると思う。

日本人は「態度」という言葉に接すると、例えば「なんだ、その態度は!」のように上長の人間が下位の人間を叱責するときなどに使う「態度」という言葉を連想してしまう。この場合の「態度」は、英語で言えば、「behavior」である。つまり、日本人は、「態度」といえば「behavior」のことだと短絡的に理解してしまいがちだ。

だが、ここで大澤氏が「態度レベルの信仰」という言葉の中で用いている「態度」は、英語で言えば、「behavior」ではなく「attitude」である。たいていの日本人は、「attitude」というものがどういうものを指すのかよく分かっていない場合がほとんどだと思う。なぜなら、日本語の中に「attitude」に厳密に対応する単語は無いからだ。やむなく比較的近い「態度」ということばを使って行かざるを得ない。日本語の中には、「attitude」に厳密に対応する単語が存在しないために、日本人には「態度レベルの信仰」というものが理解できないでいる可能性が高い。もし信仰する「態度」に「attitude」が不可欠だとしたら、日本語というものは、信仰には不向きな言語なのかもしれない。

(9)本書のP196には、橋爪氏による「愛は律法が形を変えたものだ」という指摘がなされている。この指摘はなかなか興味深い。なお、この場合の「愛」とは、エロスとしての「愛」ではなく、「アガペー」としての「愛」である。橋爪氏によれば、愛も律法も、どちらも神と人間との応答であるという。本書には、おそらく福音書のどこかに載っているエピソードなのだろうが、次のようなエピソードが紹介されている。

イエスがパリサイ派の学者に、「イエスさん、あなたは律法に詳しいが、あんなにたくさんあるモーセの律法で大事なものはどれでしょう」と訊かれた。イエスは答えて、「第1は、心を込めて、あなたの主である神を愛しなさい、第2は、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。律法はこの2つに尽きている」と述べたという。たくさんあった律法がたったの2条に要約されてしまったのである。

【関連項目】

(読書)『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)(その3)

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986808476&owner_id=3879221
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