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2024年01月21日17:04

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(読書)『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)(その3)

私がmixi日記に読書感想文を投稿するときは、1冊の本につき1件の日記に対応させて作成するようにしていたが、この『ふしぎなキリスト教』は、本当にケタ違いに面白い。このため、1件の日記には収まらない。そこで、数回に分けて感想文を記述したい。この日記は、その第3弾である。

(5)本書のP96には、マックス・ウェーバーが提唱している「エントツァウベルング
脱呪術化、呪術からの解放)」という概念について触れられている。この「エントツァウベルング」という概念については、実は私にはよくわからない。ところが、以前に『マックス・ウェーバー』(野口雅弘著:中公文庫)という本を読んだことがあるのだが、この本を読むと、P144以降あたりにこの「エントツァウベルング」という言葉が登場する。どうやらウェーバーの宗教社会学の重要タームらしいのである。ウェーバーの宗教社会学について調べたいときは、『宗教社会学論選』(みすず書房)という本が必須の文献らしいことも書いてある。これらの文献を踏まえた上で、いずれ考察を深めてみたい。

(6)本書(『ふしぎなキリスト教』)のP116には、「信仰」と「認識」とがどう違うかが解説されており、大変興味深い。引用によって紹介してみよう。

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 「信仰」というものには、決断の要素が、したがって責任という契機が入ってくるところが、「認識」とは違うところだと思います。神の声が拡声器か何かで直接聞こえてくるとしたら、「雨が降ってきた」ということを認識するのと同じことになるので、ここには決断の要素はありません。しかし、ある人を預言者として受け入れ、その人にコミットするということは、究極的には根拠のないところを、「えいやっ」と思って決断し、選択することです。ここに、認識とは違った信仰における「決断」という要素が入ってきます。
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この文脈でいうところの「信仰」を持っている人は、自分はどういうところを「信仰」しているのか、それを自覚することができるように思う。逆に、もし「信仰」らしい信仰を持っていない人は、「信仰」とは「認識」とは違う何かなのだ、という認識を持っておらず、信仰することと認識することとの区別も認識していないと考えられる。このあたりのことは、日本人の「世間教」を考察するうえでポイントになるような気がする。つまり、日本人は「世間教」を無自覚的に漠然と受け入れており、自分は「世間教」の何を信じているのかについても自覚的な認識を持っていないと考えられるのである。

(7)本書のP117には、科学と奇蹟との関係について興味深いことが述べられている。すなわち、一神教の奇蹟の考え方を、よくあるオカルト信仰と同じようなものだと勘違いしてはならないという。神は自然法則を一時停止することができる。これが奇蹟であるという。例えば、宗教の信仰にあまり理解の無い日本人は、「この科学の時代に奇蹟を信じるなんてナンセンス」のようなことを言う人がいるが、これは著者(橋爪氏)に言わせれば、一神教に対する無理解もはなはだしいという。科学をつくった人びとだからこそ、奇蹟を信じることができる。科学を信じるから奇蹟を信じる、ということが一神教的には正しいのだという。

【関連項目】

(読書)『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)(その1)

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986788542&owner_id=3879221

(読書)『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)(その2)

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1986794767&owner_id=3879221

(読書)『マックス・ウェーバー』(野口雅弘著:中公新書)

https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1984707492&owner_id=3879221
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