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2024年01月18日16:25

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(読書)『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)(その1)

最近、キリスト教についてより深く知りたいと考えるようになり、書店で『ふしぎなキリスト教』(橋爪大三郎/大澤真幸著:講談社現代新書)という本を見つけたので、購入して読んでみた。内容は、社会学者の橋爪大三郎氏と、同じく社会学者の大澤真幸氏との対談の形式で展開されている。内容は非常に面白い。比較的似た本で、以前に『キリスト教講義』(文藝春秋)という本を読んだことがある。この本も2人の著者の対談形式で展開されている本で、非常に面白かったが、この『ふしぎなキリスト教』のほうは、さらに面白さが一段上を行くと言っても過言でない。また、『キリスト教講義』のほうは、対談者の2人がともにカトリックの信者であったが、この『ふしぎなキリスト教』のほうは、2人の対談者はキリスト教の信者という立場ではなく、あくまで学者としての立場からキリスト教を分析している。興味深い点が多数あったので、数回に分けて紹介しよう。

(1)キリスト教の母体となっている宗教はユダヤ教であるが、ユダヤ教には律法(法律ではない)というものがある。これは宗教法ともいわれるものであるが、ユダヤ教における律法は、ユダヤ民族の生活のルールをひとつ残らず列挙して、それをヤハウェ(ユダヤ教の神)の命令(神との契約)だとするのである。衣食住、生活暦、刑法、民法、商法、家族法、…、など日常生活の一切合切が生活規律集のようにまとめられているものを指す。

 ここで、もしも日本人がとこかの国に占領されて、皆がニューヨークみたいなところに拉致されたとする。100年経っても子孫が日本人のままでいるには(日本人としてのアイデンティティを失わずにいるには)どうしたらいいか。それには、日本人の風俗習慣をなるべくたくさん列挙してこれを律法にし、愚直に実践し続ければいいということが述べられている。(P43)

 もちろん日本には、そんな律法は存在しないし、律法の根拠となる宗教も存在しない。この話を読んで、私は、堺屋太一の『日本とは何か』(講談社)という本を思いだした。この本には、「(日本人が)日本を離れると「日本人」でなくなる」というエピソードが展開されている(P179)。その例として、アメリカに渡った中国人と日本人の比較の話が載っている。サンフランシスコ周辺の中国系の人々は、大半が19世紀後半にアメリカに渡った中国人労働者の子孫で、今の中年以下では三世ないし四世だが、そのほとんどがいまなお広東語(かんとんご)が話せるというのである。それに比べて、アメリカ在住の日系人の三世は、大部分が日本語をほとんど話せない。アメリカに移住した諸民族のなかで、先祖のことばを失うのが最も早い民族の一つが日系人だと言われているらしいのである。

 つまり、私が何を言いたいかというと、日本人は宗教も律法も持っていない。そのことが、日本人が異国の地に渡った時、日本人としてのアイデンティティの喪失を早めるということなのである。

(2)本書(『ふしぎなキリスト教』)のP78あたりでは、一神教というものを説明するために、一神教を多神教(日本の神道は多神教である)、仏教、儒教と比較するということをしている。著者の分析によれば、一神教の一つの特徴は、神と人間との対話が可能になるという。逆に言えば、一神教ではない宗教のバックグラウンドにある民族、とくに日本人のように一神教のバックグラウンドは全く持たず、弱い多神教のバックグラウンドしか持たない民族の場合、対話というものが苦手になる可能性がある。以前に、中島義道の『〈対話〉のない社会』(PHP新書)という本を読んだことがある。この本を読むと、日本人がいかに対話が苦手で、人生のさまざまな局面で対話を避けているかがよくわかる。なぜ日本人は対話を避けるのか。その遠因が、日本人の信仰が一神教からほど遠く、一神教の信仰をつうじての対話力の鍛錬が欠けているから、という側面にもあるのではないかと思える。

【関連項目】

(読書)『キリスト教講義』(若松英輔/山本芳久著:文芸春秋)

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