新年を迎えると日本のあちこちでウィンナ・ワルツの演奏会が開かれる。これは毎年ウィーンから衛星生中継されるウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートがきっかけになったのだろうが、その華やかな曲たちは確かに新年に相応しいものだ。
昨夜はウィンナ・ワルツの古いLPを久しぶりに棚から引っ張り出して聴いてみた。マックス・シェーンヘル指揮ウィーン・フォルクスオーパー管弦楽団の演奏によるもので、ウィーンで録音されたアメリカ・キャピトル盤。ランナー、コムツァーク、レハール、ツィーラー、ヨゼフ・シュトラウスといったところでヨハン・シュトラウス無し。
演奏は前奏などは完全にカット。美味しいところだけの短縮版という潔さが心地よい。
そこで最近のウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサートがなんとなくつまらなくなった理由を考えてみた。
その1 シュトラウスとその周辺の音楽を大曲と捉えすぎる。
長年、指揮をとってきたウィリー・ボスコフスキーが79年で勇退し、その後は有名指揮者たちが次々と指揮台に立つようになった。曲を聴くから指揮者を聴く転換点になったのが80年のコンサートだ。大指揮者たちは夫々自分の個性を出そうと奮闘する。でも相手はベートーヴェンやブルックナーではないのだ。何もせず!流れるままにオーケストラに委ねたボスコフスキーが懐かしい。
その2 曲目がつまらない。
はっきり言って、最近は聴いたこともない曲目が多すぎる。特にJシュトラウスは膨大な作品を残したので、初登場の曲だけ取り上げても何十年もプログラミングできるだろう。しかし、聴いてるこちらは長年親しんできた名曲で正月気分に浸りたい。演奏されてこなかった録音の機会がない曲にはそれなりの理由がある。
その3 ウィーン・フィルは本当にウィーンのオーケストラか?
ウィンナ・ワルツの3拍子は独特で、ウィーンで生まれ育った音楽家でないとその表現は難しいといわれる。聴いてみればその通りで、まぁ言ってみれば日本民謡のこぶしのようなものだろう。嘗てのウィーン・フィルは親子代々の楽員も多く、3拍子は体に染みついたものだった。しかし最近は国際化というか楽員の出身地もまちまち。本当にウィーンのオーケストラといえるのだろうか。
とだらだらと書き連ねてきたが、大指揮者の登場したニューイヤー・コンサートで別格なのは2回登場したカルロス・クライバー。これだけは理屈抜きの素晴らしいものだ。
尚、ウィリー・ボスコフスキーが74年に指揮した演奏はドイツ・グラモフォンからDVDで発売されている。
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