2022年05月23日23:06
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p.60
すなわち、「ピュティアスは、ゲルマニアの族民たるグトネス(Guttones)が、六〇〇〇スタディオン(一キロメートルを五・二八スタディオンとするならば約一一三六キロ(74))離れたメントノモン(Mentonomon)という名前の大洋の岸辺に住んでいること、そこは春に波が琥珀を運んでくるアバルス(Abalus)島から一日の航海の距離にあること、その物質は一種凍結した海の排泄物のようなものであること、住民はそれを薪の代わりに用いること、そして彼らは近隣の民であるテウトン(Teutones)に売却することを伝えている」(『博物誌』第三七書一一章五節(75))として、続けて「ティマイオスはこの見解を認めているが、島のことを「バシレイア」と称している。フィレモンはエレクトロンに着火できることを否定している。ニキアスはそれが太陽光線のエキスであるとし、太陽が沈むとき、太陽光線が一段と強い光となって大地に注がれ、大地で凝固物となり、太陽の潮汐で持ち上げられ、ゲルマニアの岸辺に打ち上げられると主張している(76)」と記している。
p.61
プリニウスが引用している先のフィレモンの言及は、本来の琥珀ではなく、「エレクトロン」のもうひとつの意味、すなわち金と銀の「合金」を指していたと推測されるのである。
p.68
ヘルゴラント島が古典の著作家たちによって、多様な呼称で呼ばれたことはすでに指摘した。具体的には「アバルス」、「バシレイア」、「バウノニア」の三つである。
p.69
それによるとこの島は「フリーセン人とディーン人の境界地帯に(in confinio Fresonum et Danorum)」位置し、この島ではFositeと称される神が崇められている(99)。そしてこの「フォシーテの島(Fositenland)」は、ブレーメンのアダムによってヘルゴラント島と同一視されているというのが、ヴォルフガング・ラウアーが主張する考えで(100)、ゲルマン学の泰斗ラインハルト・ヴェンスクスも指示する推論である(101)。
…
この点を踏まえて、北欧言語学者ハンス・クーンと共にヴェンスクスは、この「フォシーテ」神を古代ギリシア神話における海の神である「ポセイドーン(Ποσειδων(104))」を祖型にしたものと推測している(105)。
p.70
ゲルマン言語学では、「グリムの法則」と称される音韻変化によって生じた、ゲルマン語の子音推移は、ローマ人との接触によるラテン語の影響ではなく、時代的にそれに先行するギリシア語との接触によって生まれたと仮定する。そして「ポセイドーン」から「フォシーテ」への変化は、まさしくグリムの法則に従った語頭のP音からF音への推移、つまり無声破裂音から無声摩擦音への推移として表れている(107)。
…だが、ドイツの言語学者ヴィリ・クログマンは、そもそも古代ギリシア語のΒασιλειαはギリシア語"Basuaalaiia"に由来し、「赤い岩壁」を意味したと主張した(111)。
p.71
ヘルゴラント島はこの赤色フリントの鉱脈から、「赤い島(エリュテイア'Ερυθεια)」とも称された(112)。
…そもそも「アトランティス」という名称は、プロメテウスやオケアニデスの兄弟とされる、世界の西の涯で天空を支えているアトラスという神話的・宗教的存在に由来している。…そして彼の居場所が世界の涯であるべきであったがゆえに、そこは大地と海と空とが混淆した世界であり、それはまさしく地中海人に対して北海の干潟が作り出すイメージそのものなのである(116)。
p.89
彼は直ちにゲルマニアに進軍し、カンニネファテス、アットゥアリア、ブルクテリーの諸族を屈服させ、ケルスキー族を服従させた(67)。ヨーネは「カンニネファテス」について写本作成時の誤射の可能性があり、正しくは「カマーヴ」ではないかと推測している(68)。
p.90
リッペ川水源地帯での越冬とカウキー族への言及は、この軍事作戦がウェザー川から北海沿岸にまで及んでいたことを証言している。ここからティベリウスは東もしくは南東のエルベ川下流地帯に向かった。そしてこの辺りを定住域としていたランゴバルト族と会戦し、これをエルベ川の東に追いやった(70)。…
…「私の艦隊はオケアヌスを、ライン河口から東方はキンブリ族の領土まで公開した。そこまでは陸路にせよ海路にせよ、それ以前ローマ人で到達した者は一人もいなかった。キンブリ族もカリュデス族もセムノーネス族も、その他同じ地方のゲルマニア人も使節を送って、私とローマ国民の友誼を求めた(73)」。
…プリニウスの理解が、すでに触れた約三〇〇年前にマルセイユ人のピュティアスが実践したとされる北海・バルト海航海の内容を下敷きにしているのは疑いないところである(76)。
p.91
だがその障害となるのは、マルコマンニ王国を統治する「軍隊王」マロボドゥウスの存在であった。…西方の部隊、すなわちライン軍の司令官であったサトゥルニヌスが受けた命令は、カッティー族の領域からボヘミアを衝くことで、総司令官であったティベリウスは、イッリュリクム総督ウァレリウス・メッサラ・メッサリヌスが指揮するイッリュリクム軍を使って、南のノリクムのカルヌントゥムから北に攻めのぼるという作戦であった。
p.92
マロボドゥウスはマルコマンニ族の支配層に前三〇年頃に生まれ、ゲルマン語でMerabadwaz、あるいはMarabadwazと表記された。
p.94
第一のカテゴリーに属するのは、ライン川沿岸とその周辺領域、リッペ川沿いのローマ支援拠点、ヴェッテラウ地域、マイン川流域、エムス川河口地帯、ラーン川流域などである。
p.95
第二のカテゴリーは、リッペ川やラーン川流域ほどローマの直接支配下にはないライン・エルベ間の北海沿岸の人々、すなわちバタウィア族、フリーセン族、カンニネファテス族、カウキー族などの土地である(93)。
第三のカテゴリーに属するのはオスナブルック地方である。ここは「トイトブルクの森」の戦いでウァルスの軍隊を殲滅したゲルマン諸族の中心となったケルスキー族やブルクテリー族の領域である。
…
ケルスキー族の族長シギメルスには二人の息子がおり、一人はアルミニウスという名前であり、もう一人はフラヴスと称した。
p.98
殲滅された三軍団がそれぞれ保持していた金属製の鷲の軍章のひとつが西暦一五年にブルクテリー族から返還されたところから、この部族も参加したことは明らかである。また、カッティー族のもとで捕虜となり奴隷身分に落とされていた元ローマ兵が、西暦五〇年に解放奴隷となった事実が報告されているところから、この部族もトイトブルクの森の戦いに参戦したことが推定される。
p.100
ライン川下流域を防衛する「下ライン軍」は、ケルンに第一ゲルマニカ、第二〇ウァレリア・ウィクトリクス(Valeria Victorix)、第五アラウダエ(Alaudae)の諸軍団を、クサンテンには第二一ラパクス(Rapax)軍団を配置し、これらすべてをカエキナ・セウェルスが統率した。…
一方ライン川上流域の「上ライン軍」を構成する四軍団は、第二アウグスタ、第一三ゲミナ、第一四ゲミナ、第一六ガリカの諸軍団でカエキナ・ラルグスが指揮した。
p.101
西暦一四年から一六年にかけてのゲルマニクスのゲルマニア内部への遠征は、一四年秋にトイトブルクの森の戦いに加わった諸部族への懲罰が目的で、マルスィー、ブルクテリー、ウシペト、トゥバントなどの諸族に対して行われたが、大きな成功を収めることはなかった(114)。
p.102
ウェザー川の両岸は敵対的なアングリワリー族の領域である。
p.104
その象徴と言えるのが、配下のエルベ・ゲルマン部族のセムノーネス族とランゴバルト族が離反し、アルミニウスの側に与したことであった。…
…逃亡した王の後を襲ったのはカトゥアルダという人物であったが、直後の一九年か二〇年に、隣接するヘルマンドゥーレ族によりマルコマンニは滅亡させられた。
p.118
エルベ川の東の地域は、ゲルマニアに対して「スエヴィ人の土地」を意味するスエヴィア(Suebia)の名称で呼ばれた。これは固有の集団としてのいわゆるスエヴィ族とは別の、エルベ・ゲルマン人を指す総称である(44)。
p.119
現時点でのこの問題をめぐる議論の収斂点は、ザムラント半島において最も発掘作業の成果が挙がっているドルカイム・コブロボ(Dollkeim-Kovrovo)文化の所見に照らして、ウィッスワ川とネマン川に定住した青銅器時代に遡る定住民の子孫で、後に古プロシア人の直接の祖先と呼ばれる西バルト人であったとするものであろう(48)。…
…西暦六九年にライン川河口のデルタ地帯を定住領域としたバタウィア族が部族の指導者ユリウス・キウィリスのもと、ライン右岸のゲルマン人諸部族と共に反乱を起こして以来、ほぼ一世紀にわたって、大規模なリーメス攻撃は生じていなかった(50)。
p.120
北海沿岸を定住領域としたカウキー族は一七〇年頃、現在のベルギー沿岸に大々的な略奪遠征をしたことが記録されている(56)。また現在のドイツのフランケン地方にいたカッティー族が、一六一年から翌年にかけて、上ゲルマニアからノリクムにかけてのリーメスを攻撃し、七〇年間続いた平穏を破った(57)。
p.121
ランゴバルト・ウビイー連合軍は、一六六年暮れか、一六七年初めに長駆して属州パンノニアに侵入したが、ローマ軍の騎馬兵の奮闘によって、押し返された(59)。こうしたなかで、一五〇年の少し前に、ウィッスワ川下流地帯右岸を定住領域としていたゴート族が、王フィリメルスに率いられて南東に向けて移動を開始する(60)。
p.122
すでに触れたように、ローマ世界からバルト海地方へのアクセスに関して、ライン川からゲルマニア内部を東に横断してエルベ川地方に赴くプランは、西暦九年九月のトイトブルクの森での大敗によって実質的に放棄されており、西暦六二年のクイントゥス・アティリウス・プリムスのカルヌントゥムから出発してのバルト地方への到達は、代替策が何であったかを示すものである。…この二世紀前半の現実を反映している地理的概観において、彼が商人都市として挙げている多くは、ドナウ川から北海とバルト海地方に通ずる街道、すなわち「琥珀街道」であるとヨーネは指摘している(66)。
p.123
現在のドイツ、テューリンゲン地方に定住したこの部族は、リーメス外部のいわゆる「自由ゲルマニア」の商取引に最も重要な役割を果たしていたとされるが、このことはタキトゥスの証言からもうかがわれる(68)。
p.125
この時期、クアード族は親ローマ派のフルティウスを追い払い、アリオガエススを王に選び、ローマへの敵対心を新たにした。
p.128
考古学者ヘイコ・シュトイアーは発掘成果の精力的な検討を通じて、アレマン族がエルベ川とオーデル川に挟まれた地域から出た、いわゆるエルベ・ゲルマン人であることを証明してみせた(95)。
p.129
だがヨーネは、それが「後裔」や「遅参者」を意味し、セムノーネス集団から自らの意志で離脱した一派の後裔としての「青年部隊(Jungmannschaft)」であると解釈するのである(103)。セムノーネスから今やアレマン族としてエトノス生成を遂げた集団は、友邦とも言うべきユトゥング族と共に、ドイツ地方中部を定住領域としていたヘルマンドゥーレ族を吸収したとされる(104)。
p.130
二世紀前半のゲルマニアの定住状況を既述したプトレマイオスの『地理』には、ズデーテン山地の北に定住している人々として"Τευριοχαιμαι"が挙げられている(109)。…
…その軍事力の要は両刃の長剣を振るう騎馬兵にあり、ドナウ川の北に存在したローマ人の住民組織を破壊し、住民の一部を奴隷化した。リュシアン・ミュッセによれば、奴隷資源を獲得することが、アレマン族の侵略の目的であった。
…彼らはもともとがエルベ・ゲルマン集団とは異なり、北西ゲルマニアの北海沿岸やライン川、エムス川、ウェザー川、リッペ川などの流域に居住していた小部族の同盟団体であった(114)。この同盟に加わった集団として、カマーウィ、カットゥアリア、カスアリー、ブルクテリー、ウスィビー、トゥバント、アムスウァリィなどが知られている(115)。これに、後に述べるようにシカンブリ族も加えるべきであろう。
p.131
フランク「同盟」に結集した諸部族は、イスタエウォネースの神を崇敬する祭祀集団でもあった(117)。
…
こうした解釈を大きく転換させたJ・トリーアは、一般的な概念である「男集団」の意味で理解した。…たとえばクアード族は「悪人」であり、ウビイー族は「犯罪者」、ブルクテリー族は「反抗者」といった具合である(121)。
p.132
ルートヴィヒ・シュミットによれば、「フランク」という名称はブルクテリー族に始まる(124)。…当時ブルクテリー族はエムス川の両岸に沿って、リッペ川流域に接する辺りまでを定住領域としていたが、その後は主にエムス川の西岸を居住地とするようになった(125)。…
…これは充分ありうる想定で、ローマ人によるゲルマニアへの浸透に対する彼らの激しい抵抗は、その利権を保持することへの強い執着の表れと理解することができると同時に、バルト海地方への産地の移動と、パンノニアを経由する交易ルートの繁栄という事態に対応して、彼らが交易に有利なポジションを占めるために、ボヘミア、あるいはパンノニアに移動した可能性も想定されるのである。
p.133
タキトゥスが証言するところでは、西暦一世紀末にかつてブルクテリー族が拠点にしていた領域は、今やカマーウィとアングリワリーが占拠していて、それは六万にも及ぶブルクテリー族を屠って駆逐することで実現したのであった。
p.140
第一は、北方およびラエティア地方でのかつてマルコマンニ族の隣人であったリュージュ族が、デクマーテン・ラントと称された地域に侵入しようとしたのを撃退したこと。第二は、マイン川地方でブルグント族やヴァンダル族の一派を撃退したこと。第三は、ライン地方で、自らはアレマン族の九人の小王が指揮する連合軍を撃破し、軍団長たちに指揮を委ねた対フランク同盟戦では、フランク軍が占領したケルンとトリーアから彼らを駆逐させ、ゾシモスの証言によれば四〇万人のフランク人を含む「蛮族」を殺し、生き延びた者をライン川右岸に追いやったことである(19)。
…その折、ボノスス指揮下のライン川を監視遊弋していた水上部隊の艦艇を、フランク同盟がプロブス帝を支援して悉く焼き払ったという事実が知られているが、これもまた船上の戦いへの習熟がもたらした功名であったと言える(21)。
p.141
ゲンノバウドゥスの王国は、かつてのブルクテリー族の領域と重なるところから、彼はブルクテリー族であった可能性が高い。
p.147
エーリヒ・ツェルナーは、それが同盟軍(foedus)として正式に帝国の友軍として受け入れられたことを意味していると考えた(55)。…
蛮族同盟軍(foederati)とはローマ帝国の同意のもと、一種の同盟契約を結び、その契約のもとに武装自弁で、ローマ軍司令官のもとで従軍するのである。
p.155
アスカリクスがブルクテリー族に属することはほぼ間違いないと思われるが、メロガイススについては、ゲルマン人名の二要素構成の原理からしてmero-と-gaizazから成ると推測されるが(8)、mero-はサリー・フランク人の王統に特徴的な名前であり、この反乱にサリー集団が加わっていた可能性を指摘しておきたい。
p.156
「アレクサンドロス大王は、自らのマケドニア人の他は、たといできたとしても、全ギリシア、全イッリュリアからの徴募で膨れ上がる軍隊の兵員を四万人以上には決してしなかった。それは戦争指導者がそれ以上の人員が必要ではなく、それ以上になれば軍隊ではなく、単なる群衆になるから(12)」。
p.160
ライン川右岸のフランク同盟に対しては二つの橋頭保が建設された。ひとつはノイスに対面するハウス・ビュルゲルに架かる橋であり、もうひとつはケルンに面したドゥーツである。…
左岸ではライン川から離れた街道防御の砦をマース川のキャーク(Cuijk)が、サリー・フランクの支配するバタウィアの入り口を監視した。ケルンからトリーアの街道に沿ってはフローツハイム、ユンカーレート、ビットブルクのそれぞれ砦が、またトリーアからストラスブールに向けてはノイマーゲン、パッヒテン、ザールルイスなどの砦が属州ベルギカ・プリマを防御し、上ゲルマニアのアレマン族に対しては、マインツとストラスブールに置かれた軍団が対処した。
p.164
この一連の経過はコンスタンティウス二世による「時間稼ぎ」の方策のように読める。つまり、姉のコンスタンティナを使って、ウェトラニオを擁立させ、マグネンティウスとの直接対決の構図を当面避けようとしたのである。
p.165
何らかの理由で、自分が指揮する東方の軍隊を十分に備えることができず、それが可能になるまでの時間を稼ぎたかったのであろう。そして年末に東方軍が到着すると、用済みのウェトラニオをシルミウムで退位させた。彼はその後六年生きながらえたとされている(41)。
p.169
ユリアヌスの軍隊はブリュマトを再占領し、アレマン族の援軍を自身の見事な指揮で敗北させた。このとき彼が採用した「三日月」型陣形は、おそらく彼が東方で学んだ戦法である。彼は新プラトン主義哲学の研究にとどまらない知識を吸収していた。
p.170
だが何よりも敵の圧力の強さはアレマン族同盟の兵力の大きさによるもので、七人の王が合同して多数の貴族層と三万五〇〇〇人の戦士を集め、装備・補給品を含めてライン川の渡河に三昼夜を要したとされる。…
…戦争はまだ続き、ユリアヌスは野戦機動部隊を率いてライン川を渡り、マイン川沿いに追撃して、クノドマリウスの同盟者である三集団を率いる三人の王の降伏を実現することができた。
p.173
北海の海岸に沿って、個別的にはサリー・フランクが進出していたのではないかと推測したくなるのである(82)。
p.174
そうこうするなかで、彼はある夜森で野宿する敵を見つけ、密かに忍び寄ってできるだけ多くの首をかき、それをトリーアの都市に曝した。…
…カリエットは直ちにひとりを捕らえ、道案内をしてくれれば命は助けることを伝え、その手引きにより攻撃は大成功を収めたことを、アンミアヌスは語っている(87)。
p.175
その名前を挙げるならば、Castra Herculis, Quadraburgium, Tricensima, Nivesium, Bonna, Antennacum, Vingoなどであった。エーリヒ・ツェルナーはこれら七つの都市について以下のように現在の都市との同定を行っている。ナイメーヘン、クアルブルク(クレーフェの近く)、ケレン(第三〇軍団の駐屯地)、ノイス、ボン、アンダナハ、ビンゲンである。…ローマ軍は幸運に恵まれて、接近をゲルマン人に全く察知されることなくカットゥアリア族が棲むルール(Ruhr)地方に入り、完全な奇襲に成功した。
p.176
ラングル地方のアテュイエ(Atuyer)という地方名は、このとき大量に連行され入植させられたカットゥアリア族に由来している(91)。
「ルーン占い」をご存知ですか。ルーンとは、古代北欧で使われていたルーンと呼ばれる文字を用いた占いのこと。具体的には何か悩みがあったとき、ルーン文字が刻まれた石や木片を投げたり、ポーチに入れて引いたりして占います。
文字自体に魔力があるとも言われているので、ルーン文字が刻まれた石などをお守りにすることも。「よく当たる」と人気の神秘的な占い、ルーンの世界を紹介しましょう。
■ルーン占いとは
◎ルーン占いってどんな占い?
ルーンの占い方はとてもシンプルです。一般的にはルーン文字が刻まれた石や木片を直感で選ぶ、卜術(タロットのように偶然出た事象から吉凶を推測する占術)の一種。ルーン文字が刻まれた石は「ルーンバッグ」と呼ばれるポーチに入れることもあります。また、頭上から全てのルーンを落として一番近くに落ちた石(ルーンストーン)や木片(ルーンチップ)を観て占う方法も。とにかく占いたいと思ったときにすぐに実践できる、手軽さが魅力の占いです。
◎ルーン占いの歴史
ルーン占いの歴史は古く、紀元前1〜2世紀頃、北ヨーロッパにいた古代ゲルマン民族が使っていたとされています。ルーン文字は、当時の人々が古代北欧の神々と交信するために作られた特別な文字だったのです。占うだけでなく、剣の柄に勇敢さを表す文字を彫るなど、魔術的な目的でも必要とされてきました。
■ルーン文字の種類と意味
ここからは、24種類あるルーン文字のそれぞれの意味を解説します。
◎フェフ(Fehu)
お金やもの、財産など「物質的な豊かさ」を表します。豊かな人生や成長のイメージ。
◎ウルツ(Uruz)
本能のままの「勢い」を表します。大きなものへの挑戦や、大胆な行動のイメージです。
◎トゥリザーツ(Thurisaz)
「プライド」や「執着心」を表します。衝動的な行動やアドバイスを受け入れない、といった意味も。
◎アンズーツ(Ansuz)
「知性」や「会話」を表す文字です。「言葉」によるコミュニケーション、連絡も示しています。
◎ライドゥホ(Raidho)
「移動」や「近場への旅行」を表します。スピーディーに物事が進展するという意味も。
◎ケナーツ(Kenaz)
「情熱」や「始まり」を表す文字。未知の世界を切り開いていく勇気の象徴でもあります。
◎ゲボ(Gebo)
「贈り物」「愛情」を示します。穏やかな気持ち、深い信頼関係という意味も。
◎ヴンヨ(Wunjo)
「喜び」や物事の「成就」を表します。努力した結果、得られる充実感のイメージです。
◎ハガラーツ(Hagalaz)
「予想できない出来事」や「アクシデント」を表します。全てを受け入れよという意味も。
◎ナウドゥヒーツ(Naudhiz)
「忍耐」や「慎重さ」など、時間がかかることを表します。気分転換が必要という暗示も。
◎イザ(Isa)
「停滞」や「保留」を表します。物事はいったん「一時停止」したほうがいいという意味。
◎イェーラ(Jera)
「努力」「収穫」を表します。ずっと続けてきたことに対する成果や報酬を得られそう。
◎エイヴァーツ(Eihwaz)
「再生」と「変化」を表します。今までのものを手放し、切り替える、切り離す勇気を持つ、といった意味。
◎ペルドゥロ(Perdhro)
「偶然性」や「チャンス」を表します。突然の好機の瞬間を逃すな、というメッセージ。
◎エルハツ(Elhaz)
「友情」や「仲間」を表します。集団の中で成し遂げることやチームワークという意味。
◎ソヴロ(Sowulo)
「太陽」や「幸運」を表します。生命力・成功・勝利といったポジティブで力強いイメージ。
◎ティヴァーツ(Teiwaz)
「勇気」や「積極性」を表します。勝利に向けて突き進むチャレンジ精神という意味も。
◎ベルカーナ(Berkana)
「母性」や「穏やかさ」を表します。愛を持って何かを育み、成長させていくイメージ。
◎エーヴァツ(Ehwaz)
「素早い決断」や「移動」を表します。物事がいい方向へ変化し、望み通りの展開に。
◎マナーツ(Mannaz)
「協力関係」や「結束力」を表します。自分の役割を果たすことで、物事が達成する状態。
◎ラグーツ(Laguz)
「感受性」「想像力」を表します。夢やアート、サイキック、相手との共感性という意味も。
◎イングツ(Inguz)
「豊かさ」や「成功」を表す文字です。理想的な形で完成するイメージ。深い満足感も示します。
◎ダガーツ(Dagaz)
「着実な成長」「今日1日」を表します。物事が少しずつ前進している様子、穏やかな日々のイメージ。
◎オートゥハラ(Othala)
「伝統」「遺産」を表します。常識や規則に従って行動、古いものを尊重するという意味。
(Maria Coretta)
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