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2022年04月21日14:11

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大阪市大が大阪公立大学と成ったことで母校愛が上昇した

令和4(2022)年4月21日用の
日記枠確保第一。

内容予定は
「大阪市大が大阪公立大学と成ったことで母校愛が上昇した」
くらい。

現在時刻は
14時11分。

☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

令和4(2022)年4月1日で
独立の大学としての大阪市立大学は消滅し
大阪府立大学との統合で
大阪公立大学(英語表記:Osaka Metropolitan University)
となった
。

大学学部における
「商学部」(私の卒業学部。大阪市立大学商学部1984年3月卒)
は残されたようだが

大学院では
「経営学研究科」
と「商学」の文字は排除されてしまった。

と思ったのだが
大学院は
昭和28(1953)年の開設時から
「経営学研究科」
であって
そもそも「商学研究科」は実在しなかった
ということが判明した。

ちなみに
学部の「商学部」の誕生は
明治13(1880)年に大阪市民によって設立された
「大阪商業講習所」の流れを汲(く)む学部として
「府立大阪商業学校」に改称(明治18(1885)年)
「市立大阪商業学校」に改称(明治22(1889)年)
「大阪市立高等商業学校」設立(明治34(1901)年)
「旧制大阪商科大学」設立(昭和3(1928)年)
を経て
「新制大阪市立大学」が発足した時(昭和24(1949)年)に
他の経済・法文・理工・家政学部と共に設立された
「商学部」が最初。

「商学部」がプライドを持っているのは
昔は法学部を最初に置いた帝国大学(現:東京大学)の学部と序列が
「法・医・工・文・理」
であったことに始まる(明治19(1886)年)ようで
(明治20(1887)年に分科大学に薬学部が出来て序列は
 「法・医・薬・工・文・理」
 となり
 明治23(1890)年に分科大学に農科大学が加えられ、
 (序列が「法・医・薬・工・文・理・農」となったのは
  後述する分科大学が廃されて学部が新設された大正8(1919)年以後)
 となり
 明治30(1897)年に京都帝国大学が創設され
 帝国大学は東京帝国大学へと改称された)

そのような「一文字」の「学部」呼称に続いて
大正8(1919)年に帝国大学令が改正され
分科大学が廃されて学部とすることが決められた時に
東京帝国大学に「経済学部」
という「二文字」の学部が新たに誕生した。

それにより
大正8(1919)年より前の「一文字学部」と
大正8(1919)年以後の「二文字学部」との間に
気分的な「格差」が生じたのかもしれない。

ただし東京帝国大学には「商学部」は無かった。

それは
東京には1884年より東京商学校由来の東京商科大学があり
東京商科大学が東京大学商学部として吸収されなかったから

だとか

帝国大学には「国家枢要の人物育成」という理念があるが
商業はその理念にそぐわないから

だとか言われるが

昔の人にとって
「一文字」の「学部」は
「長い歴史」という「伝統」を持っているために
「重要視」されていたのだと思う。

なので「商学」という学部は
戦後の1949(昭和24)年に誕生した
「新しい学部」ではあるが
「歴史」は
(大阪市立大学にとっては)
明治13(1880)年以来の長い歴史と伝統を持つ学部として
重要視していたのだと思う。

そういう歴史を持つ
大阪市立大学商学部は
大阪市立大学の中でも
看板学部としての位置付けがあり
大阪市立大学の中では
医学部よりも格付けが上であったような感覚を
大阪市立大学は持っていたのではないだろうか。
(医学部が
 大学本部のある大阪市住吉区杉本町ではなく
 大阪市阿倍野区にあったので
 大阪市立大学の中では
 医学部は分科大学(分校)のような位置づけであった気がする。
 時代の流れで「医学部」の位置付けは上昇するのだが
 そういった流れとは無関係に伝統的な意識の中では
 「商学部」の方が「医学部」よりも上位に位置していた感覚が
 少なくとも昭和54(1979)年に入学した僕には感じられていた。)

そんな大阪市立大学の商学部だけど
このほど
令和4(2022)年4月1日から
大阪公立大学の商学部と成った。

大阪公立大学は
大阪市立大学の杉本キャンパス(大阪市住吉区杉本町)と
大阪府立大学の中百舌鳥キャンパス(大阪府堺市中区学園町1番1号)を
二大主要キャンパスとしつつ
令和7(2025)年には
森ノ宮にキャンパスを創って
(建設予定地の場所は
 今の扇町公園ではなく
 大阪城公園駅の東側、大阪城が真西に見える位置に
 地上13階建のキャンパスを建設予定
で
 医学部と文学部などが入る予定のようだ。)

その場所を
大阪公立大学の「顔」にしようという
大阪市と大阪府の「意図」が窺(うかが)えるけれども

そうなってくると
元々大阪市立大学のあった
杉本キャンパスや
大阪府立大学のあった
中百舌鳥キャンパスは
影が薄くなるような気がする。

これからも
杉本キャンパスは
元気に学問を営んでくれるだろうけれども

僕が5年間食べ続けた
唐揚げランチを提供してくれていた
「ランチハウス林(はやし)」は
今はもう無いし
(年金のことで2019年の4月頃に大阪市大の杉本キャンパスを訪れた時には
 学生マンション=アルカンシエルがすでに2017年11月に新築されて
 「ランチハウス林」は撤去されてしまっていた。
 ランチハウスを経営していた御夫婦がその後どうされたかは不明だが
 年齢を考えると他で新しく店を構えたとは考えにくい。
 ただ大市大の学生に聞けば知っている人はいるかもしれないが。。)

「商学」というネーミングに
伝統を感じる現代人は居ないと思われ

ますます
大市大の商学部の存在意義が
薄れてゆくように思われ

そうなるとなると
なんだか
母校愛が
沸々(ふつふつ)と
生じて来て

僕は経営者ではないし
マネジメントに興味を持っているわけではないし
そもそもビジネスの才能は無いのだが

大市大で学んだ5年間の記憶は
今でも持っているし

その間
大学に合格が決まって
入学した間も無い頃
大阪府知事選挙があって
選挙の応援に
飛び回ったことで
神経症を発症したことが元で
8年前後の人生を棒に振った思い出や

社会科学ゼミナールというクラブを創って
そこで
大学院生を招いて
『資本論』をレジ目分担を決めて読み続けて
最後まで残ったのは
後に大学教授になった
東大寺学園出身の仲上哲(てつ)君と
僕だけだった記憶や

学生に人気で
父が原告団団長として訴えていた公害裁判にも協力的であった
宮本憲一先生を
敢えて選ばず

学生の人気は無かったが
人柄に惹かれて指導教官として選んだ
橘(たちばな)博(ひろし)先生の著書
(『現代生産管理論』昭和38(1963)年、ミネルヴァ書房)を
一人で
(なぜなら僕の学年で橘先生を指導教官に選んだのは僕一人だったからだ)
毎回読んでレジュメを作って発表した
思い出や

教養キャンパスに乗り捨ててあった
スズキのハスラー(TS250 II 型1970年製くらいだったと思う)を
キャンパス内で
タンクに入っていたガソリンが無くなるまで
免許も無いのに
乗り回していた思い出などが

蘇ってくる。

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最終更新
令和4(2022)年4月22日  4時35分
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