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2022年03月10日16:38

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ロシア・ウクライナ危機2021−2022 第2回 ウクライナ伝統のコサック魂 1708年のバトゥールィンの悲劇 文豪ニコライ・ゴーゴリー ザポロージャ原発 3/10(木)付け

 3/10(木)
ウクライナ侵攻により、ロシアは世界的に孤立している。プレーステーションに続き、NintendoDSなど、ゲーム機器の出荷の停止も発表された。
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=6880425

ロシアとウクライナの過去の歴史と共に、現代の出来事を見つめていく。テーマは、ウクライナのコサック魂である。16世紀に出現したとされる武装集団と現代人の共通点についても探る。

 1回目 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1981710171&owner_id=32437106

 目次
・第5章 非武装中立化とは?ウクライナの象徴ザポロージャ・コサックについて
・第6章 コサックの首府バトゥールィンの悲劇
・第7章 ザポロージャ原発が制圧される

 必 肖像画の掲載元はウィキペディア

   第5章 非武装中立化とは?ウクライナの象徴ザポロージャ・コサックについて

 ロシア軍のウクライナ侵攻は激しさを増している。2月28日、ベラルーシの第二の都市ゴメリで行われた1回目の停戦交渉では、両国から派遣された代表団同士が折り合えず、進展はなかった。直ちに侵攻を止めるように訴えるウクライナ側に対して、ロシア側は非武装、中立化と共に、2014年に併合したクリミア自治共和国の併合を認めるように要求した。ウクライナのゼレンスキー大統領は、ロシアにも欧米にも寄らない中立化を受け入れるものの、非武装は到底呑める条件ではない。非武装中立化を宣言するのは、1929年にローマ教皇領を元に建国されたバチカン市国、1968年に軍を解体したリヒテンシュタイン、1983年に軍備を放棄したコスタリカがあげられる。コスタリカに関しては、非常時には徴兵制度が復活し、軍を結成できる。同じ中米のパナマは、1989年から1990年のアメリカ軍による侵攻を受けて、軍は解体され、以降結成していない。

 イタリア半島内のミニ国家サンマリノは、イタリアに防衛面を任せることにより、常備軍をもたない選択をした。非常時には16歳から60歳まで軍に導入される。ピレネー山脈内のアンドラは、フランスとスペインの両国が、防衛の義務を負う。

 常備軍を持たない国は、近隣諸国との関係は良好である。


ウクライナが、非武装化すれば、ロシアに事実上国を乗っ取られることを意味する。時のロマノフ朝12代目エカチェリーナ2世統治下で行われたことが繰り返される。エカチェリーナ2世は、中央集権化を進めるにあたり、ウクライナ文化の抹殺を図った。1765年にウクライナの自治区を示す「スロボダ・ウクライナ」を廃止した。時に反旗を翻すウクライナのコサックは、無法集団とみなし、厳しい管理下に置く。コサックは、トルコ語で無法者を意味する。現欧州最大規模の原発のあるザポロージャに拠点を築いた。従って、ウクライナのコサックのことを「ザポロージャ・コサック」という。歴史書によると、豊かなドニエプル川沿いで、略奪を繰り返すタタール(モンゴル系住民を差す)からの自警団から始まった。タタールから町を防御した武装集団が、自ら攻め入り、家畜を盗み、アルメニア人やトルコ人の隊商を襲った。欲しいものを力ずくで手に入れる集団は、戦闘でも力を発揮する。
クリミア汗国を襲撃し、奴隷の身だった仲間達を解放した。正教の擁護者で武装した集団を、いつしかトルコ語において分捕り品で暮らす人、あるいは自由の民を意味する「コサック」と呼ばれるようになった。

 関連日記 2021年9月8日付 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980288196&owner_id=32437106

 写真=イリヤ・レーピン作 「トルコのスルタンへ手紙を書くザポロージャ・コサック」1880~91年、ロシア美術館所蔵 
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19世紀のウクライナの文豪、1809年のポルタヴァ産まれのニコライ・ゴーゴリーは、コサックの性質を理解し、史実に基づいた作品「タラス・ブーリバ」を書き上げた。1835年に発表され、たちまち注目を浴びた。舞台は17世紀始め、主人公タラス・ブーリバは、コサックの一部隊の隊長オタマーン職を務める。仲間から全幅の信頼を寄せられ、タタールとも戦闘を繰り広げていた。ウクライナへの締め付けを強化する宗主国のポーランド・リトアニア共和国を酷く嫌い、仲間を従えて、反乱を起こす。兵の数で上回る共和国軍によって、鎮圧され、仲間のコサックを次々と失った。辛うじて捕縛を逃れた彼は、共和国の首都ワルシャワへと潜入し、生け捕りにされた息子の処刑をこの目で見た。隊長ブーリバは、息子の敵討ちとして、共和国の町を襲い、老若男女問わず、見つけ次第きり殺し、徹底的に破壊し尽くす。狂気に狩られたブーリバは、敵対する共和国の兵に捕らえられ、最後は火破りの刑に処される。正教を擁護し、故郷のドニエプル川沿いの穀倉地帯を愛するブーリバは、確かに酷薄な一面がある。リーダーとして、統率力に長け、仲間との連帯感が強い。信仰心が篤く、屈強な男だった。作者ゴーゴリーは、1853年に44歳の若さで亡くなっている。彼が生きた時代、ウクライナは自治権さえなく、ナショナリズム運動は禁じられていた。出版物の検閲も厳しく、帝政を批判すると、国家反逆罪に問われかねなかった。ゴーゴリーも、ウクライナの文化を残した功績者だった。

写真=ニコライ・ゴーゴリの肖像画 
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 歴史的資料から16世紀の終わり頃に出現し、当時この地を領土に組み入れたポーランド・リトアニアの配下に治まっていた。1648年に全コサックのトップとなるヘーチマン(棟梁ともいう)のフメリニツキーが、反旗をひるがえし、一時的に独立国家を築いた。現在国内西部に、フメリニツキーの名前を冠した州と街がある。幸いにも2022年の戦闘において、大きな被害は出ていない。
ウクライナの英雄といわれるボフダン・フメリニツキーは、いくつかの部隊に分かれたコサックを一つにまとめあげていた。地政学上大国に囲まれた状況から、ウクライナコサックのみでは国土防衛は難しいと判断していた。そこで宗教的に近い、同じ正教徒のモスクワ・ツァーリーのアレクセイに保護を申し出たのである。アレクセイも、国力を上げるため、コサックの力を必要としていた。1651年から交渉に入り、1654年に決着をつけた。現キエフ州ペレヤースラウにて協定を結び、ウクライナとモスクワ・ツァーリーは、一体となった。現プーチン大統領のロシアとウクライナの民族一体性は、ペレヤースラウ協定からも持ち出される。フメリニツキーは、モスクワと協力して、ポーランド・リトアニアを叩こうとしていた。アレクセイに対し、コサックの自治権容認と共に、キエフ総主教の座を維持してもらうように訴えた。アレクセイは、軍の指揮権を頂くことと引き換えに、コサックの自治権とウクライナ正教を認めたと考えられている。協定については、原本が残っていない。ペレヤースラウ協定により、ウクライナは独立国家ではなくなった。。

写真=ペラヤースラウ会議の模様を表した絵画 ウィキペディアより
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 1657年にボフダン・フメリニツキーが、62歳で没すると、コサックは部隊ごとに異なる動きをする。1667年には、モスクワ・ツァーリー国とポーランド・リトアニア共和国の間で結ばれたアンドルソヴォ条約により、ウクライナの国土は分割された。ドニエプル川を境に、右岸はポーランド・リトアニアに、左岸はモスクワ・ツァーリーが獲得した。右岸地方では西暦1700年に自治権が廃止される一方、左岸地方ではオスマン帝国との防波堤代わりに利用される。後世の歴史家は、ペレヤースラウ協定を機に、ロシアとポーランドに屈したとみている。西暦1700年から1721年にバルト海の覇権を巡って、モスクワ・ツァーリーとスウェーデン王国と争った「大北方戦争」でも、コサックは投入される。

    第6章 コサックの首府バトゥールィンの悲劇

大北方戦争は、バルト帝国のスウェーデンに対して、モスクワ・ツァーリーとポーランド・リトアニア共和国、デンマーク=ノルウェー王国が北方同盟を締結していた。開戦年の西暦1700年8月18日に、破竹の勢いで勝ち進むスウェーデン王カール12世の前に、デンマーク=ノルウェー王フレデリック2世は降伏し、トラヴェンタール条約を締結した。北方同盟から離脱し、対スウェーデンとの武力闘争に加わらないことを誓約させられる。1702年5月には、ポーランド・リトアニア王アウグスト2世を討ち取るため、首都ワルシャワを占拠した。ザクセン選帝侯を兼ねるアウグスト2世は、1697年の国王自由選挙にて、ピョートル1世の支援によって出馬し、国王に選ばれた。敵対するカール12世は、ピョートルと同盟を結ぶアウグスト2世の退位を要求するべく、議会(セイム)に乗り込んだ。

写真=カール12世肖像画 
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7月19日、アウグスト2世は、軍勢2万2000を従えて、軍勢1万2000のスウェーデン軍とクリシュフの戦いにのぞんだ。兵の数では劣っていたカール12世が、アウグスト2世軍に勝利し、10月にトルニ要塞を落とす。アウグスト2世は完全に屈し、退位を決断した。1704年7月、国王自由選挙が行われ、フランスのローレンヌ公スタニスワフ・レシチニスキが選ばれた。ポズナニ県知事から国王へと昇格したレシチニスキは、翌1705年10月4日に戴冠すると、11月28日にカール12世との間でワルシャワ条約を結ぶ。スウェーデンは、ポーランド・リトアニアを属国と化した。

モスクワ・ツァーリーのピョートル1世は、仲間を失っていく中、ウクライナのコサックの長マゼッパを味方につけていた。忠誠を誓う変わりに、2万箇所の荘園を送ったのである。大地主となったマゼッパは、農奴から徴収した税を使って、ウクライナ文化の振興に寄与した。

写真=マゼッパの肖像画 
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大北方戦争において、スウェーデン王カール12世軍が優勢に立つと、最前線で起用されたコサックは、多大な犠牲を払った。コサックの死傷率は50%から70%にのぼったといわれている。おりしも、ポーランド・リトアニアは、スウェーデンの属国化し、レシチンスキが王の座について、ウクライナ入りしていた。西暦1708年に、マゼッパは、モスクワのピョートルの保護から離れるべく、仲間のコサックの未来を考えて、スウェーデン、ポーランド・リトアニア共和国と同盟を結んだ。マゼッパの行動は、モスクワ・ツァーリーのピョートルに密告された。憤激したピョートルは、ただちに制裁を下す。コサックの首府バトゥールィンに兵を差し向け、無差別殺害を命じる。バトゥールィンは、現ウクライナ最北部チェルニーヒウ州最西部に位置する。1648年のフメリニツキーの乱により、コサックのチェルニーヒフ連隊が駐屯していた。フメリニツキーの死後、ロシアの影響力がある左岸ヘトマンの座についたイヴァン・ブリュホヴェーツィキーが、1663年にモスクワとの間でバトゥールィン条約を結び、保護下に入った。1669年から1708年までコサックの首府が設置された。当時の人口は2万といわれている。

 写真=バトゥールィン城塞のヘトマンの家 掲載元freepik https://jp.freepik.com/premium-photo/hetman-house-at-baturyn-citadel-in-chernihiv-region-of-ukraine_14518738.htm
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マゼッパが、敵国スウェーデンに寝返ったことにより、コサックの首府バトゥールィンは、モスクワ軍に包囲された。ピョートルに忠誠を誓う軍人アレクサンドル・メーンシコフが率いる部隊が、11月2日から11月13日までの11日間にわたって総攻撃をしかける。コサックの隊長ドムィトロー・チェーチェリと忠誠部隊が必死に交戦したとはいえ、仲間の裏切り行為にくわえ、武器弾薬の枯渇が影響したのか、持ちこたえることはできなかった。メーンシコフが率いる部隊は、住民を見つけ次第殺害し、町を焼き払った。女子供の遺体は、筏に貼付け、セーム川に流した。

既に隊長マゼッパは、カール12世軍と合流していた。彼の選択によって、罪もないバトゥールィンの住民が犠牲になった。後世の歴史家は、「バトゥールィンの悲劇」とよぶ。

 マゼッパは、カール12世と行動を共にし、弔い合戦に挑む。開戦当初優勢に立ったカール12世軍は、ポーランド・リトアニアを属国化し、ウクライナのコサックを引き入れた。モスクワのピョートルを降伏させ、国を弱体化させる狙いを持っていた。ところが、疫病や食糧不足により、1709年に兵力を3分の1まで減らしていたのである。食糧不足の原因は、ピョートル軍がカール12世軍の通り道を予測して、町を焼き払ったことにある。カール12世軍は、補給もままならず、傷病人の手当ても難しかった。消耗しきった状態で7月9日、1万6000の軍勢と共に、ピョートルが率いる4万2000の軍勢と現ウクライナ東部のポルタヴァで戦った。両国の運命を決する「ポルタヴァの戦い」で、物資の補給態勢を整え、兵隊の数で上回るピョートル軍が大勝した。カール12世とマゼッパは、モスクワと敵対するオスマン帝国の属国モルダヴィア公国のベンデリへと亡命する。1710年に、マゼッパは重い病にかかり、失意のうちに70歳で病死した。

 写真=ポルタヴァとベンデリの位置関係を示した図 掲載元 kagawatakakiのブログ 2017年10月8日付 ロシア39 ロマノフ朝 9/18 http://blog.livedoor.jp/kagawatakaaki/archives/50782991.html
 
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 マゼッパをとりあげた関連日記 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980755517&owner_id=32437106

マゼッパのスウェーデンの鞍替えにより、首府バトゥールィンは、徹底攻撃を受けて、灰燼に帰した。罪もない多くの血が流れ、後に悲劇の町として語られるようになった。先代のヘトマンであるフメリニツキーも、コサックの未来を考えたマゼッパも、現代のロシアへ屈したことに変わりない。過去の歴史から、大国化へ進むロシアは、ウクライナを兄弟ではなく、従属国として扱っていることが分かる。マゼッパもフメリニツキーも、ウクライナの主権回復のために最善の策を尽くしたことに変わりない。例えマゼッパが、ピョートルの部下としてとどまったとしても、カール12世軍から集中砲火を浴びた可能性がある。現にピョートルは、ウクライナコサックを、防波堤代わりに利用していたからである。バトゥールィンの町は、1708年の破壊行為により、すっかり荒れ果てた。1726年時点で426戸にとどまっていた。コサックの首府は、よりロシア国境に程近いスームィ州フルヒフに移されていた。

写真=現ウクライナの州地図 掲載元 日本語サイト https://honkawa2.sakura.ne.jp/8990.html
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後世の芸術家や文学者は、悲劇のヒーローとして、マゼッパを作品に取り上げるようになった。19世紀のロシアの作曲家チャイコフスキーのオペラ「マゼッパ」は世に広く知られている。現4000万人のウクライナ人は、過去の出来事を学び、独立運動を指揮したコサックを英雄として湛えている。フメリニツキーやマゼッパの精神は、確かに息づいていた。

 大北方戦争は、1709年のポルタヴァの戦い以降、一気にモスクワ軍が有利にたった。ポーランド・リトアニア王は、直ちにピョートルに忠実なアウグスト2世が復位した。スウェーデン軍のカール12世は、1718年に戦死している。1721年9月10日に現フィンランドのウーシカウプキで、モスクワとスウェーデンの代表団が集った。当時の町の名称である「ニスタット条約」を結び、モスクワは、スウェーデン領カレリア地方、バルト海沿岸のサーレマー島などを獲得した。11月2日に、大戦に勝利したピョートル1世は、帝冠を戴いた。国名もラテン語でルーシーを意味するロシアに改めたのである。

 ウクライナのコサックは、全てがマゼッパに加担したわけではない。ピョートルの元に残ったコサックは、首府をフルヒフに移され、ロシア軍二連隊の監視の下、活動を許される。新たにコサックのリーダーとなるヘーチマンの座には、イヴァン・スコロパードシクィイが付いた。コサックの自治権は削減され、戦闘において最前線に立つと共に、新都サンクトペテルブルク建設のための埋め立て工事にも借り出された。危険な戦闘任務と、過酷な工事によって、多くのウクライナコサックが犠牲になった。

 写真=「サンクトペテルブルク建設にピョートル大帝」、作者ゲオルギー・ぺシス
掲載元 RUSSIU BYOND https://jp.rbth.com/history/82420-sankuto-peterburg-wo-meguru-shinwa
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18世紀末についにウクライナの最終的な運命が決まった。時のエカチェリーナ2世が、オスマン帝国のアブドゥルハミド1世との間で1774年に「クチュク・カイナルジ条約」を結び、黒海沿岸の自由航行権、クリミア半島の東端の領土(ケルチとエニカレ、クバンとテレク地区)を獲得し、目標を達成することができた。オスマン帝国の力が弱まったことにより、ついに1775年に防波堤代わりに使っていたコサックを不要と判断し、解体を命じたのである。ウクライナ自体は、行制区間において、小ロシア県に編入し、地図上から抹消した。
 帝国内で、ナショナリズム運動は厳しく取り締まられた。19世紀、知識人の間で、ウクライナの文化が語り継がれ、20世紀の独立運動の足がかりになった。

      第7章 ザポロージャ原発が制圧される

 21世紀のウクライナ人は、過去の歴史から、ロシアに対する反感とともに、国土防衛に対する意識が強い。住民は、武器を持つロシア軍を前に、時に体を張って立ち向かう。

 ロシア軍は、ウクライナ人に進路を阻まれながら、都市制圧に向けて、邁進する。1度目の停戦交渉の決裂に伴い、攻撃をますます激化させる。現地時間2日夜、クリミア半島の向かい側に位置する南部へルソンが、ロシア軍によって制圧された。同市の市長も認めている。

 写真 掲載元 BBC NEWS 3月3日付 https://www.bbc.com/japanese/60597713
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 第2の都市である東北部ハリコフは、3月2日行政の建物が、空爆により、炎上した。3日までの24時間で34人の死亡が確認された。黒海に面した東部のマリウポリは、ロシア軍によって閉鎖された。市内では物資の不足と共に、電気や水道などインフラが使用できない状態が続いている。2014年に実効支配したクリミア半島からヘルソン、東のマリウポリを経由し、ロシア人によって築かれたルガンスクとドネツクの2つの共和国との回廊を作る。

 ドニエプル川沿いの北部の町も大きな被害を受けた。ベラルーシ西部のブレストで2度目の停戦協議が行われた3月3日のことだった。チェルニヒフの町で、住宅地の中にあるマンションや学校が空爆を受けた。ウクライナ非常事態庁は、少なくとも死亡者33人、負傷者18人に達したと明らかにした。停戦協議では、戦闘地域において、一般市民を安全に避難させる「人道回廊」を設置することで、合意に至った。ロシア側は、戦争を続ける意向に変わりはないものの、一般市民の犠牲を減らすことに理解があった。協議に参加した代表団と、現場の軍隊とでは考えが一致しているわけではない。現にチェルニヒフは、ウクライナの軍事施設はない。ロシア軍は、一般市民を巻き沿いにする無差別攻撃へと化している。プーチンは、予想以上にロシア軍の各都市への攻略が遅く、判断力さえ失っている。ついに現地時間3月4日未明、欧州最大の原子力発電所ドニエプル川沿いの南東部ザポリージャにある原子力発電所が、ロシア軍の攻撃を受けた。訓練施設の一棟が炎上し、直ちに現地消防局が消火作業に入った。爆撃により、稼働中の原発に異常が起これば、2011年の福島原発、1986年のウクライナ北部チェルノブイリを凌ぐ、過去最大規模の原子力発電所の事故に陥っていた可能性も否定できない。現在15基中6基が稼働中である。ウクライナは、ロシアからのエネルギー依存を脱却するべく、この数年発電量の6割を原発で賄っていた。

 写真=笹川平和財団 国際情報ネットワークIINAより https://www.spf.org/iina/articles/yuki_kobayashi_05.html
 
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ロシアは、殺傷能力が高いクラスター爆弾や燃料気化爆弾さえ使用したと報じられている。明確に1964年のジュネーブ条約の違反事項にあたる。戦闘中ダムや原発など無差別なインフラ破壊は認められていない。3月4日に開かれた国連安保理でもジュネーブ条約を含め、国際法違反と弾劾された。つまり今回のウクライナ侵攻は、自国民保護のためではなく、侵略行為に過ぎないと、国際社会から糾弾されたのである。
当のプーチン大統領は、2月24日から始まったウクライナ侵攻を、「ルガンスク人民共和国」と「ドネツク人民共和国」に暮らすロシア人保護を目的としている。戦争の二文字を使わず、「特別軍事作戦」と言い切っていた。

ウクライナ側は、民間人にも被害が及び、2つの未承認国家から離れた地域でも攻撃を加えている事態から「国際法違反」だと強く非難した。既にオランダのハーグにある国際司法裁判所に提訴している。緊急性に基づき、3月7日から8日の間に審理される。裁判所の検察官が、ウクライナへの軍事作戦の正当性、または人道に対する配慮をしているか、現場からの報告を元に捜査する。違反行為を犯していると判断し、起訴に踏み切れば、法律上プーチン大統領を拘束することも可能だ。加担するラブロフ外相やその他軍の上層部も逮捕の対象になる。例え国際裁判所から呼び出しをくらっても、現政権の要職のメンバーが徹底抗戦することにより、身柄を拘束されることはない。勝てば官軍負ければ賊軍の言葉通り、軍事力を駆使して、法による裁きから逃れることが可能である。逆に負けてしまうと、戦犯として裁かれる。もはや強力な軍事力を持つロシアに対して、NATOが介入しなければ、国際法さえ通用しない。

 原子力発電所の攻撃について、ロシア当局は「ウクライナが核を生産している情報を入手した」と説明している。実際根拠は乏しい。稼働中の原発への攻撃は、世界初の出来事である。国際社会が、改めて原発の安全性と共に、核の脅威に直面した。

  宮野広・元法政大客員教授(原子炉システム学)は、チェルノブイリ原発事故の反省から、核融合炉は強固な壁に覆われているという。航空機墜落を想定したつくりになっているものの、完全に安全が確保されているわけではない、と強調する。「(状況によっては)放射性物質の漏えいはありうる。観測データを注視する必要がある」
現在原発に異常は起きていない。

 詳細読売オンライン 3月4日付 https://www.yomiuri.co.jp/science/20220304-OYT1T50182/

写真=ザポリージャ原発付近で抗議する人々 掲載元 NHK 3月3日付 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220303/k10013513021000.html
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 ロシア軍が原発を掌握する過程が見えてきた。現地時間3月2日に、町に進軍したロシア軍は、体を張って道路にバリケードを築いたウクライナ住民の激しい抵抗にあい、立ち往生した。ザポロージャは、ウクライナを象徴するコサックの聖地(シーチ)、住民たちは、怖いもの知らずで、仲間思いのコサック魂を発揮した。ロシア軍は、武器を持たない市民に対して、説得を図る。威嚇されても、住民は屈しない。原発をのっとられた場合、インフラが麻痺し、唯一の強みであった情報網が使えなくなる。翌3日にかけて、粘り強く侵攻を食い止めたものの、苛立ちが募った軍の発砲にあった。テレビカメラには、足を打たれて、道路に倒れこむ一人の男性の姿が映っていた。戦車隊は、人間の楯をつき崩し、原発へ邁進した。ロシア軍は4日未明についにウクライナの発電量の5分の1を賄うザポロージャ原発を占拠した。

 一度侵攻を始めた以上、目的を達成するまで、徹底的に破壊行為を行う。例え停戦協定に応じても、ロシアは国際社会において、戦争前の状態に戻れない。長くロシアから抑圧されてきたウクライナ人は、フメリニツキーやマゼッパなどコサックの意思を受け継ぎ、必死に戦いに挑んでいる。


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