今日は
316冊目(1990年9月12日〜1990年9月18日)
から。
「やっと段ボール片付け開始(10日目)」は
こちら。
315冊目(1990年9月5日〜1990年9月11日)から
317冊目(1990年9月18日〜1990年9月21日以降)までは
同じタイトル:学問大全研究 NOTE 第1〜3号
思考之記録 通算第 315〜317号
同じ名前表記:濱田 覚
である。
夕食後
仮眠して
今(令和4(2022)年2月14日22時27分)から
また続きをします。
318冊目(1990年9月22日〜1990年10月3日以降)
タイトルは同じ:学問大全研究 NOTE 第4号
思考之記録 通算第 318号
だが
名前表記が「濱田 覚」
以外に
ペンネームを復活させて
「大和 心(YAMATO COCORO)」と
「大和 覚(YAMATO SATORU)」
としている。
319冊目(1990年9月23日〜1990年10月24日)
タイトル:思考之記録:通算 第319号
since 1979.4.1.
学問大全研究 NOTE
別冊第1号
HEGEL(Georg Wilhelm Friedrich)
大論理学(Wissenschaft der Logik)
Category(抽象概念)
研究 NOTE
(学問大全研究 NOTE 通算第5号)
since 1990.9.23. Sunday.
名前表記:大和 心(YAMATO COCORO)
濱田 覚
浜田 覚
(最後の3枚は未使用のまま。)
この頃はまだ
ヘーゲルが
シェリングの二番煎じである
ということ
(したがってオリジナルな発想はシェリングのものであるということ)
に
気づけていない頃。
けれども
この1ヶ月少し経って
宗教経験が出ることになる。
自律性療法(1979年夏頃から1990年11月5日までの)
11年間の継続と
「哲学すること」の(中学2年生の頃(1973年)から1990年までの)
18年間の継続が
産んだ宗教経験。
それはしかし
未だ「人格」とは言えず
煩悩が克服されていない
未熟な宗教経験。
宗教経験は
そもそも
煩悩が消えることであるが
しかし
煩悩は実は
消えるのではなく
無関心となるだけであり
煩悩が無くなるわけではない。
また
宗教体験は
人格を越えているのであって
人格的ではない力をも
取り込んだ自覚であり
単なる人格
単なる倫理は
宗教体験以前の段階である。
宗教原理を摑んだ者は
狂気や悪をも
否定しない。
なぜなら
狂気や悪も
それら無くしては
宗教原理ではありえないからであり
つまり
狂気も悪も
宗教原理であるからだ。
狂気と悪を排除する宗教は
宗教ではない。
狂気と悪を受け容れられない宗教は
単なる合理主義の哲学(消極哲学)である。
本当の宗教は
狂気と悪を
正気と善と
同等に扱う。
狂気と悪が
克服の対象であることに変わりなくとも
である。
論理や
常識や
理性が
受け容れられない原理が
宗教では働く。
320冊目(1990年10月2日〜1990年10月28日以降)
タイトル:学問大全執筆草稿用 NOTE
思考之記録 通算 第320号 since 1979.4.1.
学問大全研究 NOTE 別冊 第2号 since 1990. 10.2. Tuesday.
学問大全研究 NOTE 通算 第6号
名前表記:大和 心(YAMATO COCORO)
大和 真心
浜田 覚
(ラスト13枚未使用。)
1990年を1979年と誤記していたので訂正しておいた。
この時期は
宗教体験の直前であるにもかかわらず
使役動詞で物事を考えている。
それは
Hegel の影響を受けているせいか。
なぜなら
Hegel の哲学は
消極哲学でしかなく
理性を越えていない(未だ理性の範囲内にあ)る哲学
だからだ。
宗教体験(宗教原理の獲得)は
二肢言語文法を
中動態系言語文法へ
転換せしめ得たのか。
321冊目(1990年10月3日〜1990年10月12日以降)
タイトル:思考之記録 通算第321号 since 1979.4.1.
学問大全研究 NOTE 第5号(通算7号)since 1990.9.5.
名前表記:大和 心
濱田 覚
(最後2枚未使用)
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最終更新
令和4(2022)年2月14日 22時25分
令和4(2022)年2月15日 4時23分
令和4(2022)年2月16日 17時33分
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