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2022年01月25日03:06

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新しい哲学、新しい宗教を残すために

「神話の国」蒜山高原(「高天原(たかまがはら)」)
の、しかも
「古民家(1950年の建築基準法改正(「改悪」と呼ぶ人もいる)以前の日本建築)」
に住むということの意味

「体現」すること
として
「新しい哲学を創造すること」

「新しい宗教を創造すること」

同時であることを
考えているのだが

私の名前が残ること
よりも
私の哲学(宗教)が残ること

優先したい。

私の名前が残る必要はない。

私でなければ創造し得なかった哲学および宗教が
残ることが
私にとっての使命であり天命(天意)だ。

それは
私の全祖先の意志でもあり
天の意志でもある。

全祖先の意志の結果
全存在の意志の結果
として
(他の誰もみなそうであるのだが)
今の私がある。

私の生まれた意味
私が私であることの意味
つまり
働くことのできない私
(しかしそれは「人に服従する」ために生まれたのではなく
 「天意に服従する」ため
 「全祖先の意志に服従する」ために
 生まれたからだ。
 「天意」や「全祖先の意志」は
 資本主義社会の雇用者や
 資本主義社会の一組織の
 「意志」を
 遥かに越えている。)
けれども
いま括弧の中で言ったように
天意に従って
自然の意志には適応できる存在として生まれて
全祖先の意志の結果としての私
が存在している意味を
的確に捉えて

資本主義社会における
世俗的な意味を超越した生き方をして

私でなければ生み出せない哲学
私でなければ生み出せない宗教

この世に産み落とす

そのために
為すべきことを
考える。

博士号の取得が
「学者の世界、研究者の社会の
 いいなりになる
 従順な研究者を育てるための
 巧妙な洗脳プログラム」
に過ぎないことに
気づいてしまったので

それは
大阪府立北野高校の2年生の時に
「受験戦争は
 非創造的な人間を作り上げるためのシステムだ」
ということに気づいて
創造性を守るために
「ガリ勉」の「レール」を
逸脱した時のように

「博士号を取得したければ
 我々研究者のいいなりになりなさい。
 そして本当のことなど言おうとせず
 現在の国家体制が求める研究者に成りなさい」
という
「博士号授与体制」の
「エゴイズム」から
「逸脱する」勇気

そのかわり
研究者から
「あいつは博士号も取れない無能な奴だ」
としか見做されないことを
甘受する覚悟

を持つことが大事なのではあるまいか。

それらは
仏教で言うところの
「煩悩を捨てる(超越する)」
ことではないのか。

純粋に生きる
ということが
世俗で生きにくくする
としても

世俗に順応することで
自分自身の本心が苦悩すること
の方が
耐えられないのが
私である。

なので
とにかくまずは
「書くべきことを
 書くべきままに
 書き
 それを
 手作り哲学書として
 製本する」
ことから始めよう。

学者がどのように無視しようとも
まずは「存在」として
「具現化」させることが
第一だ。

「存在」化しなければ
残らない。

「存在化」すれば
残る可能性が生まれる。

残る可能性が生まれなければ
必ず残らない。

「図書館に永久的に保存されること」
を最優先すれば
「学位(博士号)を取得して
 学位論文に基づいた出版書(単著)」

出すことが確実なのだが

その場合
私が書こうとしている内容は
実現しない。

なぜなら
世間では
社会体制の変更を求める書物は
焚書または禁書と成るから
であり

あるいはまた
現存する伝統や
現存する宗教に
異議を唱えたり
異議だけならばまだしも
否定する
即ち
その宗教の存続を危ぶませるような言行を為す者は
ソクラテスや
イエスや
ブルーノのように
殺されてしまう危険がある
からだ。

殺されるほど
過激なことを
書くつもりはないのだけれども

常識を越える発言は
現在の権力者や権力にとって
権力の維持を危うくする存在には
黙っていないだろう。

私の哲学は
現在の哲学を否定するし

私の宗教は
キリスト教だけでなく
仏教も
否定する。

社会理論としては
資本主義を否定するし

けれども
現在の共産主義も
否定する。

なぜなら
現在の共産主義は
未だ不完全であり

そもそも
宗教原理が基盤にない共産主義は
空想に過ぎないと
私は思うからだ。

現存の
どの哲学でもなく
どの宗教でもなく
どの政党でもない
私の哲学
私の宗教
私の社会

私は描く。

哲学としては
シェリングの後期哲学
西田幾多郎の中期哲学
ホワイトヘッドの歴程哲学

敬意を表し
特にシェリングからは
多大の恩恵を得ている
けれども
そのどれとも違う。

なぜなら
私の哲学は
原理としての宗教を
体験するための方法を
持っている(他のどの哲学も宗教原理獲得の方法を持たない)。

また
宗教としては
私はシェリングの『啓示の哲学』を
専門的に読解しているにも拘らず
キリスト教よりも
仏教
それも
密教(特に真言宗)を
最も深い宗教だと思うが

しかし
密教を
そのままでは受け入れず
密教だけでは実現しない
認識における厳密さと不偏性(偏らないこと)のために
医学(心身医学=自律性療法)と哲学(積極哲学)と

宗教原理表現方法としての
中動態系言語文法を
方法論として持つ。

そういうシステムを持っていた哲学は
これまでに無かったし

そういうシステムを持っていた宗教も
これまでに無かった。

そこから
新しい社会理論として
神仏の国を実現する社会理論
という考えを
私はしている。

神仏の国を実現しようとする社会理論は
これまでには無かった。

それは
宗教としては
存在していたけれども
どれもみな
心の問題でしかなく
現実の社会問題として
法律として
神仏の社会を実現しようとする
政党は
これまでに存在しなかった。

どうして
神仏の国が
実現しないのか。

それは
国民一人ひとりが
煩悩を克服できていないからだ。

国民だけではなく
社会そのものが
「欲望(煩悩)の社会」
でしかないからだ。

社会そのものが未熟なのに
国民が成熟できるはずがない。

社会が未熟であることが
国民の成熟を妨げている。

社会が神仏の国になれば
畢竟
国民の煩悩も
やがて超克されてゆくだろう。

国民の煩悩を
克服できる方向へ導ける教育が
どうしてこれまで存在できなかったのか。

判って仕舞えば
ごくごく当たり前のことなのだが

これまで
煩悩に塗(まみ)れた権力者が
社会を牛耳っていたが故に

煩悩に塗れた人が
大多数を占める社会が
「多数決」で
「煩悩肯定」の社会を
存続させてきたわけだ。

煩悩を
煩悩として
認めつつ

煩悩を越える方法が
人類全体の共有財産として
誰もが知って
誰もが行ずることのできる
そういう環境が
この世に生まれてほしい。
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