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2022年01月14日12:30

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「いつ死んでも悔いが残らないところ」まで濱田哲学を仕上げるために(4)

まにわ創業塾は
全回(第1回〜第4回)欠席を
送信した。
(QRコードから出欠確認するようになっていたのでQRコードから送信した。
 令和4(2022)年1月14日午前11時40分頃。)

とにかく
「自分」の
「特異性」を
把握しなければ
うまくいかない。

「自分」と
「繋(つな)がってはいるが」
「自分」とは
「区別」される
「自分」の「奥」で
「自分」を「根本的に」
「決定している」
「内在超越者」としての
「自己(自分の直系(父系のみならず母系の)全祖先情報)」

「特異性」も
「自分の得意性」と共に
把握できていなければ
うまくいかない。

「敵(相手)」のことばかり
いくら研究しても
「埒(らち)」が明(あ)かない。

宗教原理においては
「超越者」

「現象」

「区別」
される。

宗教の世界では
「現象」は
どこまでも
「偶然性に支配された世界」
でしかない。

「必然(永遠)性」は
常に
「超越者」のほうにある。

しかし
「超越者」は
「常に隠れて」
現象化しない。

けれども
現象と無関係ではない。

「隠れたままで
 現象に影響を与えている」
のが
「超越者」。

「超越者」
にも
「外在超越者」と
「内在超越者」が
区別される。

「外在超越者」

「神」
であり

「内在超越者」

「仏」
である。

「内在超越者」
としての
「仏」


「外在超越者」
としての
「神」

「現象形態の一つ」
に過ぎない。
(仏教は「神」を否定するので
 「仏」を
 「神の一現象(神が原因で仏は神の結果)」
 と捉えることを否定するだろうが。)

だから
「一神論」

宗教原理の
「基本」
だ。

「多神論」は
「一神論」における「神」の
「現象形態」と見做される。

けれども
「多神論」

「排除する」
一神論もまた
「過(あやま)ち」
である。

なぜならば
それでは
神の「外」に
神以外のものが存在していることになり
神は絶対者でもなんでもなくなってしまうからだ。

絶対者としての神は
「すべてが神であり
 神がすべてである世界の
 主宰者」
だからだ。

そういう宗教原理を
単に理論として合理的に理解する
のではなく
体感的に把握できる方法論を持った哲学的宗教

示してゆく。

その場合
社会から
「隠逸」しながら

つまり
単に隠居するのではなく

不必要な
撹乱要因としての
マイナス原因を
可能な限り避けて

「賢明な」隠居として
本来の宗教と
本来の哲学を
な(為・成・生)し続けたい。

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最終更新
平成4(2022)年1月14日 15時58分
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