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2022年01月12日17:03

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「いつ死んでも悔いが残らないところ」まで濱田哲学を仕上げるために(2)

昨日は余分なことを書き過ぎて
内容を失(しっ)してしまったので

今日は
前置きはやめて
いきなり
内容を書く。

死んでも悔いが残らない「ところ」
とは

自分自身が「納得」する内容の哲学を
構築し

これを書物として残したり
あるいはネット上で世界中の誰もが
簡単に読めるようにしたり

とにかく
「永続的に残るように」
(可能な限り)
「世界中の誰もが読むことができるように」
して

しかも
その「内容」が
自分自身の「納得」がゆく「水準」に
到達している
「ところ」。

そのための条件は

1.研究の自由と

2.執筆の自由と

3.表現の自由が

確保されていること。

私は資本主義社会を
社会としては
未だ成熟の域に達していない社会
と見做しているので
(その反面
 これまでの歴史的成果は
 そのまま受け容れるし
 可能な限り活用もするが
 しかし
 未熟ゆえの欠陥による「弊害」を被らぬよう)

資本主義社会の
未熟なために
自らの欠陥に気づき得ないがゆえの
「自らの過ち(弊害=公害)を修正しないまま強制してくること」
(ここで「公害」は大気汚染に限らない。
 「社会が自らの欠陥に気づけないために
  みずからの構造的欠陥ゆえの弊害を矯正してくること」も
 私は「公害(公に行われる害悪)」に含める。)
から
可能な限り
距離を置きたい。

学位も
純粋な研究水準を
上げるための「努力」は
可能な限りするが

「学位」が
「国家の方針に従順な研究者に成らせる」のために
利用されていると
「見抜いた」場合は
これに
可能な限り
従わない。

なぜなら
そうしないと
「本当に残すべき
 一番大事な事柄」が
「欠落した」
無価値の文章と
成り果てるからだ。

「禁書」の中にも
価値のある書物は
いくらでもある。

「破門」された者の中にも
重要な人物は
いくらでも居る(「スピノザ」がそうだ)。

「禁書」と見做されることを避け
「破門」されることを避けて
価値ある書を残せなかった有能な哲学者は
数えきれないほど居る。

教育は
本当は
「いかなる嘘にも詐欺にも洗脳にも暴力にも
 騙されず、陥(おとしい)れられず、怯(ひる)むことのない
 「勇気」を持ち
 何にも増して「真実」を愛し
 どこまでも「全体の立場」および「中立の立場」で
 「公平・対等・同格」に物事を判断し
 (つまり「智に働かず(智に働けば「角が立つ」から)」)
 どこまでも不動の心で
 (つまり「情に棹ささず(情に棹させば「流される」から)」)
 どこまでも意固地にならず
 (つまり「意地を通さず(意地を通せば「窮屈」だから)」)
 自由な精霊の行為(freie Geistestat)のみに随って
 (つまり freie Geistestat 以外の何ものにも従わずに)
 判断し行為出来る人間を育むこと」
を目的とすべき
だと思う。 

哲人ブルーノは
死刑(火刑)をも恐れず
書くべきことを残した。

ソクラテスもまた
死刑(薬殺刑)を恐れず
自説を主張して
これに感激したプラトンの哲学と
アリストテレスの哲学への
深い影響を与えた。

イエスも
死刑(磔刑)を恐れず
自説を広めようとしたから
キリスト教が生まれた。

「本物の価値」を残す者は
自分自身の人生を捨てている。

可能な限り
純粋に生きるとは

可能な限り
現世の欲から
遠ざかることだ。

地位と
名誉と
財産と
権力と

無関係になることだ。

「本物の哲人」
に成るためなら

なんでも捨てられる。

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最終更新
令和4(2022)年1月12日 21時06分
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