mixiユーザー(id:2223977)

2022年01月08日01:39

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「高い判断」「深い人格」「広い愛」を越えて現実を動かす力とは

後に
私が下(くだ)した判断が
より高い判断であったにもかかわらず
現実は
私が出した判断
よりも低い判断
(つまりは現実を見誤っていた判断)

現実を動かしてしまっていたことは
嫌になるほど多く実証され続けている。

それは
私に深い人格が
欠けていたり
足らないせいだろうか?
(私の人格が
 もっと深ければ
 私の判断が現実を動かせたのだろうか?)

あるいはまた
私に
広い愛が
欠けていたり
足らないせいだろうか。

高い判断と
深い人格と
広い愛を
兼ね備えている人
(いわゆる「君子」)
であっても

暴漢の凶行の前には
無力である。
(頑固な人間の意地の前では
 無力である。)

では
暴漢の凶行を
(頑固な人間の意地を)
越える力を
その君子が
持っていて
(あるいは権力を
 この君子が得ておって)

暴漢の凶行を
(頑固な人間の意地を)
抑止することに
常に成功して

高い判断を
現実を動かすことに
用いることができたとしたら

それは喜ばしいことだ。

しかし一方
君子が
君子であったなら

つまり
高い判断と
深い人格と
広い愛を持つ人
であったなら

果たして
その人は
権力を掌握することを
意志(意欲・意図)するであろうか。

権力の掌握は
無欲ではできない。

権力の掌握には
強烈な自我と
多くの犠牲が必要であろう。

そのようなことは
おそらく君子は望まないだろう。

だから君子は
権力を持たないだろう。

では
高い判断も
深い人格も
広い愛も

低い判断で
浅い人格で
狭い愛しか持たない者の
意地と
悪意と
怨念に
潰(つぶ)されてしまう運命なのだろうか。

君子の決断は
無視され
覆されてしまうのだろうか。

実際には
そのようなケースが
多々あるだろう。

じゃあ
暴力や権力や財力や軍事力や政治力なのど
いわゆる「無理が通れば通りがへっこむ」の
「無理」が
現実を
支配している
ということだろうか。

事故であれ
事件であれ
災害であれ
起きる時には起きるし
起きた時には不可避(避けれないこと)である。

事故も
事件も
災害も
巻き込まれれば
君子であれ
どうしようもない。

備(そな)え有(あ)れば
憂(うれい)無し。

どんな備え?

判断の高低
人格の深浅
愛の広狭

「違い(差)」

「問題」
として
論を立てれば

高くて
深くて
広い方が

低くて
浅くて
狭い方に対して

勝利宣言を出して
「俺に従え」
と命ずるだろう。

けれども
神仏の世界は
「無差別」
であり

そこには
判断の高低も
人格の深浅も
愛の広狭も
無い
ので
そもそも
問題化しない。

二肢言語文法である
「使役」と「服従」の論理
では
「勝つ」か「負ける」かの
どちらかしか選べない。

そうではなくて
中動態系の言語文法である
「形式は所動(=受動)で内容は能動」(=中動態)

「形式は能動で内容は所動(=受動)」(=中動態と対立する限りでの能動態)
シェリングで言えば
「純粋に存在するもの(純粋な Daß=純粋な個別存在者=ポテンツレス)」

「存在しうるもの(純粋な Was=純粋な普遍存在者=純粋なポテンツ)」
であり
「存在可能者(客体なき主体)に客体を提供する純粋存在者(主体なき客体)」

「純粋存在者(主体なき客体)に主体を提供する存在可能者(客体なき主体)」。

「純粋 Was(純粋思惟)」
(「個体的なものをもたない純粋に普遍的なもの」)
(「存在しうるもの(存在可能者=das sein Könnende)」)

「純粋 Daß(純粋存在)」
(「普遍的なものをもたない純粋に個体的なもの」)
(「純粋に存在するもの(純粋存在者=das rein Seinende)」)

「最高の対立」
であり
「究極の限界」
であり
「それを越えてゆくことのできない限界」
を形成しているが故の
「両者(思惟=Was と 存在=Daß)の一致(統一)」
が成立する。

「純粋な存在(純粋 Daß)」は
「純粋な思惟(純粋 Was)」を
完全に締め出している
が故に
「純粋な存在(純粋 Daß)」を
完全に締め出す
「純粋な思惟(純粋 Was)」と
「最高に対立」する。

通常の「個体的存在者」

通常の「普遍的存在者」

「中途半端に他方を締め出している」
が故に
「対立が終結しない」
(なぜなら、自分一人でも存在し得る(やっていける)から)

「(二重存在体であるものの双方が他方を)完全に締め出した場合」
のみ
「自分自身の存在のために
 他方が絶対に必要とする」
(「自分自身の存在が不可能となる=自分一人ではやっていけない」)
ために
「対立が不可能となる」。

究極の限界(最高の対立)
のみが
最高の一致を
可能にする。

中動態系文法構造を
思考の枠組み(構造)として
用いることができれば
(というか神仏の世界が
 そのような構造を持っていると
 感じられる)

対立は
そもそも
起こり得ないのでは
ないだろうか。

自分と
自分以外の
自分とは無関係な他者
との関係は

どこまでも
勝ったか負けたかの
泥沼の戦いが
決着がつくまで
永遠に続く。

これに対して
中動態系文法のシステムは
「存在(Daß)と思惟(Was)」の
「一致」が
「必然(必定・必常)」であり
それは
「形式所動内容能動」の「中動態」

「形式能動内容所動」の「能動態」
(存在可能者の質料(客体=存在)である純粋存在者
 と
 純粋存在者の形相(主体=思惟)である存在可能者)
とは
互いに他が自分自身の
必要不可欠な要素であり
二重存在体であるが故に

そもそもが
「唯一の統一」が保たれており
それが「永遠の統一」であるがゆえに
対立しようがない。

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最終更新
令和4(2022)年1月8日  10時26分
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