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2022年01月02日10:19

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「本覚」と「不覚」の見分け方:本覚を自覚した者(覚者)と本覚に未(無)自覚な者(不覚者)の見分け方(区別の仕方)

昨日は
「幸せの要件」
として
(1)他者に関しては
   本覚を自覚している人(覚者)
   と
   本覚に無(未)自覚な人(不覚者)
   とを区別して(見分けて)
   覚者とは関係を持つが
   不覚者とは関係を持たないこと。
   (これが『孫子』の「謀攻篇」に見られる兵法の
    「彼(敵)を知る」ということ。)

(2)自分自身に関しては
   本覚を自覚し
   不覚に惑わされないこと。
   (これが『孫子』の「謀攻篇」に見られる兵法の
    「己を知る」ということ。)

の二つを挙げたが

では
「本覚」

「不覚」

「どのようにして見分けるのか」
ということだが

まずは
「本覚」
とは何か
ということが
理解されていなければ
何も始まらない。

「本覚」

「誰にでも備わる悟りの本体(原因)」

「本覚」が
「真実在」しているからこそ
「悟り」も
可能である。

この「本覚」が
「万人に備わる」かどうか
に関しては
いろいろな意見があるが

「本覚」が自覚されれば
「万人」
それどころか
「総ての存在」に
「内在超越者としての本覚」が
「備わっている」ことを
体験的に知ることができる。

つまり
「万人平等(無差別)・万物同格(無差別)」が
「本覚の内容」である。

ところで
その
「本覚」

「不覚」

「見分け方」
だが

「本覚」は
「幸福を呼び込む本質」を持つので
「本覚」を自覚したり
自覚していなくても
「本覚」に「適(かな)った(沿った)」言行を為(す)る人には
「奇蹟(ミラクル)」が頻発する。

(ただし
 この「奇蹟(ミラクル)」は
 「本覚を自覚する者(覚者)」にしか
 感じ取れない。)

逆に
「不覚」に惑わされた言行を為(す)る人は
(「不覚」が「不幸を呼び込む本質」を持つので)
「不幸な出来事」が頻発する。

ところで
「本覚」は
「如何にして自覚されるか」
ということに関しては

私は
自律性療法に依るのが
最も安全であると考える。

けれども
自律性療法は
心身症に対する治療法であり
したがって
心療内科で施術される医療であるから

本覚の自覚を目的としない。
(ただし「無意識からの応答」は目的化されている。)

けれども
仏教や
ヨーガの
修行法は
最初から「悟道」を
標榜している。

しかし
仏教やヨーガの修行法では
修行者の心理に
何らかの異常が生じた場合に
医学的で総合医療的な対処が出来ない。

宗教
特に
仏教やヨーガは
身体を通して
心理に影響を及ぼすとともに
心身の相関関係で

心身のアンバランスを
自律的自発的に
正そうとするので

様々な
想定外の
出来事や
症状が
現れてくる可能性がある。

そういう場合に
それらの「想定外の出来事(症状)」が
何を意味するのか
(「治療促進的現象」であるのか
 あるいは
 「治療阻害的現象」であるのか)

見極めることが
宗教では出来ない。

だからこそ
「自律性療法」を
「宗教原理獲得の方法」として
用いることを私は推奨するのだ。

いずれにしても
「本覚(内在超越者=仏)」を自覚する認識(悟り)
であれ
「本覚の本体」としての「外在超越者(神)」の意志を受け取ること(啓示)
であれ
そういう「出来事」は
「偶発」的で「自発」的で「自律」的な「可能性」であるので
これらを「必然的に生起させること」は
出来ない性質の現象であることは
予(あらかじ)め
知っておかなければならない。

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最終更新
令和4(2022)年1月2日 10時35分
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