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2022年01月01日21:19

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幸せの要件

妻が
「神田 沙也加さんは
 ホテルのスイートルームに泊まれるくらいに
 経済的に恵まれていて

 仕事も
 次々と決まっていて

 側(はた)から見ると
 というか
 普通の人なら
 羨(うらや)むくらいの
 生活をしているのに

 死のうと思わなければならなくなるって
 幸せってなんやろ」

みたいなことを
言っていた。

親が有名人で
そのおかげで
経済的に裕福で
仕事も順調であっても

そのことが逆に
本人を苦しめることになったり
することがあるとするのなら
(今回の原因を
 「親の七光りと言われることに対する悩み」
 だけに解消することはできないだろうし
 単なる「恋の悩み」かもしれないのだが)

「経済」と
「仕事」は
幸せの「要件」ではないことになる。

もちろん
「経済的裕福」と
「仕事の順調」は
それがなければ
「不幸」の「要件」に
なり得ることでもあるのだけれども

「もっと根源的な要件」が
「幸せ」には「実在」している
ということを
今回の
神田沙也加さんの出来事は
示唆している。


私が思うところの
「結論」を先に言えば

「一人ひとりに与えられた
 「使命(天命=人間に幸福、不幸などを齎(もたら)す、人為を超越した作用)」
 を自覚することと
 自覚できれば
 その「使命(天命)の遂行(天賦の才の開花と結実と種を落とすこと)」
 に専念して
 「それ以外のさまざまな事ども」に
 「惑わされない」こと」

だ。

つまり
仏教の本覚思想における
「本覚(上で言えば「使命」や「天命」)」と
「不覚(上で言えば「それ以外の様々な事ども」に
相当する
「本覚(使命・天命)」と
「不覚(使命・天命以外の総(すべ)ての事ども)」を
よく区別して
「不覚に惑わされずに
 本覚に生きること」

「幸せの要件」。

これを自分自身の実生活に
当て嵌(は)めて考えると

私の「本覚(使命・天命)」は
「哲学を自由に創造し続け
 自由に創造した哲学を
 自由な形態でこの世に残し続けること」
であるから

そのことに専念することが
「幸せの要件」であり

そうではなく
「自らの使命や天命以外のことに惑わされること」

「不幸の要件」だ。

私はこれまでの人生の
「大部分」

「学術の作法を習得する為」
という理由で

「学歴」の「取得」
(学士、修士、博士の学位を取得すること)

「目的(目標)」
として
「費やしてきた(「浪費」してきた?)」。

その結果
「学術論文」
という「形式」で
「7本の論文」を
書くことができた
(その中に「修士論文」を含めることができるのならば
 「8本」あるいは(関大大学院の修士論文も含めれば)
 「9本」の論文を書くことができた)。

そのことは
「無駄」ではなかっただろう。

なぜならば
私は
1990年11月5日の
宗教体験以後
誰に何を教えてもらわなくとも
自分自身の内在超越者から
無限に天啓を受けることができるので
それに従っていくらでも新しい哲学を創造できた。

それはたとえばこれまでの
聖書や経典が書かれたのと
全く同じ理由で
そうなのだ。

つまり
聖書も経典も
何らかの宗教体験(宗教経験)を得た者が
その宗教体験に基づいて
その宗教体験がなければ決して至り得なかった境涯を
記した文章である。

その場合
「査読」なり
「論文審査」などは
存在しないはずである。

けれども
「聖書」も
「経典」も
「原典」として
「きわめて重要視(尊重)」される。

自分としては
1990年11月5日以降の
総(すべ)ての私の文章は
既にそれ以前の文章とは
「質」が「全く異なった」
「宗教原理によって自発的に書かれた文章」
であるから
「聖書」や「経典」と
同等の意義を持つ文章である。

けれども
誰もそのことに気づかずに

私の文章を
無視したり
無価値なものとしか
見做さない。

だからこそ
誰の目にも明らかとなるように
「学術の作法」を修得して
自分が書いている文章の内容が
「信用するに足る内容」であることを
示そうとして
これまでの62年を
費やしてきた。

けれども
そういう努力は
一定限度
意味があるけれども

そのことが
「本覚」に相当する内容ではなく
そのことは
「不覚」に属する内容でしかない
ということに
今回気づいて
今書いている。

「不覚」とは
「本覚=悟りの原因・根拠・根源」と捉えた場合
「不覚=迷い・煩悩」だ。

「地位」も
「名誉」も
「財産」も
「不覚=迷い=煩悩」だ。

ところで
「他人の評価を求める気持ち=承認欲求」

「不覚=迷い=煩悩」だ。

だから
私の場合
「私の哲学を誰も理解しない」
と言っても
「ナンセンス(無意味=不覚=迷い=煩悩)」だということ。

また
「不覚=迷い=煩悩」で
気づきにくいことの一つに
「他人に自分の思い通りに動いたり考えたりすることを強要すること」
がある。

あまりにひどい「強要」は
「脅迫罪」として「取締の対象」とされるが

単に「こういうリアクションをしてくれ」
と「思ったり願ったり」して
「自分の想定外の反応に対して
 自分の想定内の反応を求め
 想定外の反応に対して
 残念に思うだけならまだしも
 怒りの感情を露(あら)わにして
 自分の想定内の反応を「しろ」と
 強要すること」

「単なる判断の過(あやま)ち」
を越えて
「犯罪行為」
となる。

なので
「他人の判断や行為に対して
 これを裁(さば)いたり
 強要したりすることは勿論、

 他人の判断や行為に対して
 自分の判断や行為との違いを
 気にしたり
 自分の判断や行為の方が
 正しいということを主張することで
 相手に対して優越することを望んだりすること自体も
 不覚=迷い=煩悩」
である。

「幸せの要件」

「他人の判断や行為
 に対しては
 他人の自由に任せ
 自らは判断も行為も
 起こさないこと」
であり
「自分の判断と行為
 に対しては
 本覚と不覚を区別して
 本覚の種の成長と成熟と開花と結実と
 再び種を落とすことに
 専念し
 不覚には関わらないこと」
である。

このことをして
『孫氏』の兵法(謀攻篇)の
「彼を知り、己を知れば百戦(して)殆(あや)うからず。
 彼を知らず、しかして己を知れば、一勝一負。
 彼を知らず、己を知らざれば、毎戦必敗」
とあることに依れば、

「他者の判断と行為の本覚・不覚の見分けがつき
 自分の判断と行為の本覚・不覚の区別ができて

 他者の判断と行為の不覚には関わらず(危(あや)うきに近寄らず)
 他者の判断と行為の本覚には恩恵を被り(安全安心に抱(いだ)かれ)

 自分の判断と行為の不覚には惑わされず(危に近寄らず)
 自分の判断と行為の本覚には専念すれば

 人生は幸福なり」

という結論を得る。

これを
平たく言い換えれば

「幸福の要件」

「他人の判断や行為が
 その他人の本覚によるものであるのか
 それとも不覚に惑わされているものであるのか
 を区別し

 本覚に依るものであれば
 その恩恵に与(あずか)り

 不覚に惑わされた結果であるのであれば
 危(あや)うきに近寄らず

 自分自身の判断や行為に対しては

 それが自分自身の本覚からの判断や行為である場合には
 専念し

 それが自分自身の不覚による結果である場合には
 そのような判断に惑わされず
 行為に及ぶ前に踏みとどまること」

であり
この「幸福の要件」を
実践することができれば

いかなる場合にも
人生を幸福にすることができる。

ただし
いくら
「彼を知り、己を知って
 (これ以前に
  まずは「本覚」と「不覚」の区別を知る必要があるのだが)
 彼の不覚に依る判断と行為に惑わされず
 彼の本覚に依る判断と行為の恩恵に与(あずか)り

 己の不覚に依る判断と行為に惑わされず
 己の本覚に依る判断と行為に専念」
していても

「彼の不覚に依る判断と行為」
に対して
誰も「強制して止める権利」を持たない
(「犯行(反抗)」に対して「抑止」する権利(権力)は
 警察権力にすら与えられていない。
 警察は「犯行」後に「強制捜査する権力」を与えられているだけで
 「犯行前」に「未だ行われていない犯行=未遂犯行」に対して
 なんら強制的な抑止力を持たない。
 だからこそ「犯行」に及ぶ可能性の高い人間を「抑止」することを
 警察に求めても
 「犯行が実行されるまで」は警察は何もできない。)
以上

突然の
ゲリラ的犯行
に対しては

誰もが無力である。

しかし
だからこそ
そのような
「突発的犯行」
あるいは
「偶然の事件や事故や凶行」
に対しても

「備え」が
必要であろう。

その「備え」とは
何か。

あらゆる
「偶発現象(人による犯行に限りらず自然災害も含めて)」
に対処する為に

「最強の武器と権力」を
「備える」ことが
「正解」だろうか。

それは違う。

なぜなら
「自然災害」

「人類の力も
 国家の力も
 人間世界の総力も
 はるかに越えている」
からだ。

けれども
自然災害
(この場合コロナウイルスのような
 「疫病(伝染病など)」を含む)

「生じにくい環境を選んで住む」
ことは可能だ。

つまり
「君子危うきに近寄らず」
である。

「自然災害」
と同じことは
「人」
に対しても言える。

「人間の判断と行為」
に関して
それが
「その人の本覚から自発している判断と行為」
であるのか
それとも
「その人の不覚から必然的に生じている判断と行為」
であるのか

区別することができたのであれば

「不覚に依る判断を下し行為をやめられない人」

「関わらない」
のが
「君子(賢者、人格者)」
であり
「最も賢明な判断」
だと言える。

確かに
「不覚の人」を
「本覚に気づいた始覚の人」へと
導くのが
教師の使命(役割)である。

しかし
「聞く耳を持たない者」の場合
教育者の努力は無駄となる。

少し言えば
すぐに理解して
飲み込める人も居れば

どれだけ諭(さと)しても
結局は不覚(=迷い=煩悩)のままで
不覚から抜け出せない者もいる。

教師
むしろ
法師

「不覚者を覚者たらしめること」

「教育の使命」とするので
「いかなる者も本覚を持つ」ので
その「凝り固まった不覚」を
解(ほど)く努力と技術を修得すべきだろう。

しかし
教師や
法師で
ない場合には

「不覚者」を
「覚者」たらしめる
「忍耐と多大な努力を必要とする時間と労力の浪費」を
「避けること」が
「幸せの要件」だ。

「避けることのできる無駄」は
「省(はぶ)くのが合理主義」だ。

「関わらなくても良い不覚者」には
「関わらないのが賢明」で

「関わらなくても良い不覚者」に
「覚者たらしめんと
 多くの時間と
 無限の努力を浪費すること」は
逆に
「不幸の要件」だ。

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最終更新
令和4(2022)年1月1日 22時35分
令和4(2022)年1月2日  5時59分
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