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2021年12月25日19:11

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悟りと啓示と共産主義

「悟り」は
「内在超越者」
或いは
「仏」
即ち
「直系全祖先情報」
としての
「DNA」
(「仏」は「DNAを原理とした現象の総(すべ)て」。
 「仏」との関係で「神」を説明すると
 「DNA」を形成する当体が「神」と考えられている外在超越者。)
の内容が
意識へ現象すること。

それに対して
「啓示」は
「外在超越者」
即ち
「直系であるとないとに関わらず
 総(すべ)ての存在の根源者」
(だからDNAも神が形成していると考えられる)
としての
「神」

直観的且つ体験的に
感じ取ること。

「悟り」については
「総ての生きとし生けるものの
 対等・公平・同格・中立・無差別」
を直観すると同時に
実践(行為)することが
「覚者(かくしゃ=梵語 buddha=自ら覚り他を覚らせ、覚も行も完全な者)」
であることの
「証(あかし)」だ。

「啓示」については
「外在超越者」としての「神」
の「意志と行為」を
「奇蹟(ミラクル)」として
「見神(Visio Dei)」
出来て
「神の意志と行為」に
「従って生きること」
が出来ることが
「聖者であること」
つまり
「神の啓示を受けていること」

「証(あかし)」
だ。

共産主義とは
本来
有財制社会のこと
だが

この社会の成員が
「悟りを開いた者」や
「神からの啓示を受けた者」でなければ
そもそも
共産制(=共有財産制)社会(原始共産制社会と未来の無階級共産制社会)の
私産制(=私有財産制)社会(奴隷制社会から資本制社会までの階級社会)
に対する
「優位性」が
発揮されない。

なぜならば
「共有財産」という「発想」は
そもそも
「悟りが開ける」か
「神の啓示を受ける」か
いずれかによって
「私有財産」に対する
「一切の興味関心」が「失(う)せる(消滅する)」
ということがなければ
出て来(こ)ない「発想」
だからだ。

「覚者」や「聖者」であるならば
「私有財産」を「捨てて」
「共有財産」を
享受
(精神的にすぐれたものや物質状の利益などを、受け入れ味わいたのしむことを)
することができる

「不覚者」や「非聖者」が社会の多数派である場合では
そもそも
「財産の共有化」に対して
「不満」をかかえる人が
多数派となるので
「共有財産制」の社会が
続かないからだ。

「極楽世界」や
「神の国」では
総ての財産は共有されているはずで
そのような共有財産制の社会は

「仏陀」や
「キリスト」のような
「覚者」や
「聖人」が

世界構成員の
「大部分」を占めていなければ
(「共有財産制の社会(共産制社会)」などは)
続かない。

そういう意味では
(つまり
 社会の構成員の
 大多数が
 覚者や聖者である
 というような水準の社会に
 社会そのものが成熟する時代が
 いつ来るのか
 という意味では)

極楽国土も
神の国も
(つまり
 本当の意味での共産主義社会も)
永遠の未来にしか実現しないか
あるいはまた
人類には達成不可能な
単なる理想の世界である
のかもしれない。

けれども
賢者の間では
そういう社会あるいは
コミュニティが
存在していても
おかしくない。

そういう試みは
歴史的にも
いろいろなコミュニティで
あるいは有志たちによって
行われてきていたが

いずれも
上手(うま)くいった試しがない。

それは
歴史を動かしているのは
人間ではないからだ。

人間が主体となった
歴史変革は
うまくいかない。

内在超越者(仏)であれ
外在超越者(神)であれ
歴史を動かしている当体による
変革は
それが必然性であり
それが自発性であるかぎり
(たとえ偶発的なものであっても)
確実に動くし
確実に変革されるし
確実に長続きする。

人類にできるのは
ただ
それを予測したり
その動きに沿って
その動きを促進させることくらいで

人間が
神仏の意志に逆らってみても
徒労に終わるだけだ。

大事なのは
神仏の意志を
直観(直覚)して

これに沿って
動けることだ。

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最終更新
令和3(2021)年12月25日 23時01分
令和3(2021)年12月26日  2時43分
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