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2021年12月21日21:11

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京大の図書館を自由に活用出来る環境を捨てて、蒜山高原の古民家へ引っ越した意味を考える(3)

令和3(2021)年12月4日に
「京大の図書館を自由に活用出来る環境を捨てて、
 蒜山高原の古民家へ引っ越した意味を考える(1)」
を書き
翌令和3(2021)年12月5日に
「京大の図書館を自由に活用出来る環境を捨てて、
 蒜山高原の古民家へ引っ越した意味を考える(2)」
を書いて
今日は、その3。

(1)では
「第1目的は夫婦の健康」
という判断を示した。

「京大の図書館を自由に活用出来る環境」は
研究にとって最高の環境であることは間違いない
のだが
研究も
命あっての物種。

命が尽きれば
そうでなくとも
健康を害すれば
研究どころではなくなる。

健康を維持できない環境であると
判断したのであれば
健康を維持できる環境へ
スイッチするのが当然だからだ。

(2)では
「第2目的は哲学の自由創造」
という判断を示した。

私の研究の第1目的は
「自由に研究し、自由に執筆し、自由に出版(表現)する」
ということであるから
このことが実現出来なければ
蒜山高原の古民家に来た意味も意義も失せる。

そして今回は
第3目的について判断を示す。

当初
「第1目的の健康」

「第2目的の哲学自由創造」
を挙げた時
それに尽きるか
と思えたが

やはり
(大阪市立大学を卒業し
 関西大学大学院修士課程を修了しているのに)
わざわざまた京大に来た
「第1目的」は
(大阪市立大学で「学士号」は取得し
 関西大学大学院で「修士号」は取得しているので)
「学位(博士号)」の取得
それも元々の目的は
「文学研究科で宗教学専修で文学の課程博士号」
であった。

けれども
運命の悪戯(いたずら)か
はたまた
神の意志か
教育学研究科の大学院へ入学することになった
(その「神意」は学部から始まっていて
 京大「文学部」に入学しようとしたが
 「倫理を重視しない(西田哲学がアイデンティティの筈なのに)文学部」
 では合格できず
 結果的に「倫理の配点が高い」京大の「教育学部」に合格することになった。
 私が合格した平成14(2002)年では
 文学部よりも教育学部の方が「倫理=哲学」を重視していたのである。
 大学院受験の時には
 「研究者としての適正無し」と判定する「文学研究科」には門前払いされたが
 「受験してみられますか」と温かく迎え入れてくれた「教育学研究科」に
 「掬(すく)われる(救われる)」こととなった)

自分は
鴨長明の
「石川や瀬見の小川の清ければ
 月も流れをたづねて(尋ねて=訪ねて)ぞすむ(住む=澄む)」
という歌にもあるように

「神仏が
 わざわざ神仏をして
 住みたくなるような心のあり方(澄んだ心)をしている
 が故に
 神仏が
 私の心を探し求めて(尋ねて)訪ねて来てくれた
 ので
 神仏の声を聞くことができる」
と思えるような
「宗教体験」をした
(平成2(1990)年11月5日正午前)
し、その後
そう思えるような
「多くの奇蹟」を
(数え上げたら切りが無いほど無数。
 しかも常に発生する。
 もちろんその「奇蹟」が「奇蹟である」ということに
 「気づく」のも「心が澄んでいなければ」感じ取れないことなのだが)
経験してきている
ので

自分が研究する分野は
宗教学
それも
特定の宗教ではなく
宗教一般を研究することが
「使命(自分の心に現れた神仏の意志)」
だと思って

文学研究科の宗教学を専修しよう
(京大で言えば
 「京都大学大学院 文学研究科 思想文化学専攻 宗教学専修」)
と思っていた
(自分の意志はそうであった)
のだが

これもまた
何の意志なのか
不明であるが
(私の祖先の意志であるとするならば
 それは「仏の意志」であろう)

文学研究科の宗教学
ではなく
「教育学研究科の教育学講座(そもそもは教育学教授法講座)」
を専修するような
「流れ」と成った。

ということは
「神仏の意志」としては
私は
「哲人」ではなく
「師範(1=てほん。模範。2=学問・技芸を教授する人。また、その資格の称。)」
を目指せ
と言っているのだろうか。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

だからこそ
私が選んだ古民家が
そもそも戦国大名の家系で

初代の
毛利元就に滅ぼされた
「南條伯耆(ほうきの)守(かみ)源(みなもとの)元続(もとつぐ)」
の妻の養子(「嫡子」との記載もあり)である
「南條主計の亮(すけ)元信(もとのぶ?)」


その
舎弟(しゃてい=人に対して「自分の弟」をいう語。他人の弟にもいう)
であり
「南條伯耆守元続」の仇を討つために
「毛利家」の
「討ち手」を「引き請け」
「昼夜雷鳴 動(ややもすれば?)電を散らす如き合戦」の末
「南條鳥羽の守(かみ=「頭」とも書くが読みは同じ「かみ」)元重(もとしげ)」
は毛利家の軍に追い込まれ
討死(討(う)ち死(じ)に)した
その
「南條鳥羽の守元重」の
「実子(二男)」である
「南條主水(しゅすいの)輔(すけ)元充(もとみつ?)」)

の両名が
両母に連れられて
母方の出雲国(雲州)佐々木氏の養育に依って成長し

後に
「南條主計亮元信」

伯耆国河村郡(河村郷)大瀬村(現在の東伯郡三朝町)
に居宅を取り補って
「筆道謡」の
「師範」
をし

また
その舎弟(弟)である
「南條主水輔元充」も
「武芸諸道」の
「師範」
をしており

「南條主計亮元信」も
「南條主水輔元充」も

父である
「南條伯耆守源元続」と
「南條鳥羽守元重」の
敵方である毛利家の
「毛利駿河(するがの)守(かみ)輝元(てるもと?)」
が当時(天正9(1581)年から)
因幡国と伯耆国の両国を受領して
伯耆国である取鳥(鳥取)に居城していた
ために
「南條を名乗るは根を断ち技を枯らすと
 後難の程、量(はか)り難き故(ゆえ)」
両人共の
「雅名(がめい、みやびな=本名以外につける風雅な名)」
を取って
「南條」以外の名に
「改号(称号を改めること)」していた
のだが

両人による
師範業は

「伯耆国」は
言うに及ばず
「美作国」「備中国」
両国に
「門弟数多く有」った
ので

「美作国(作品)」の
「門弟」の間(中)で
「申し合わせて(相談して取り決めて)」

「美作国」へ
「引き請け度(た)」いと
「上日(月の第一日)」
「申し出」た。

「之(これ)に依(よ)り」
(この申し出を承(う)けて)

美作国(現在の岡山県)
大庭郡(現在の真庭市)
下福田村(現在の蒜山下福田)
中井川(現在の字(あざ)上井川)
という
所に
引き移って

美作国の門弟へ
日々師範した
ということが

私が選んだ古民家と
縁のある近隣の方の
お家の蔵に所蔵されている
巻物に記されている
のだが

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

だからこそ
私が選んだ古民家の
初代が
「師範」を
「生業(なりわい)」
とする
戦国大名(南條家)の家系の人
だった
のだろうか。

つまり
私が
「この古民家」を
選んだのも

「神仏の意志」

私をして
この古民家を
選ばせていて

それは
「あなたも師範を
 なさいなさい(行いなさい)」
という「神仏の意志」
の現れなのだろうか。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

ともあれ
今日の日記で示したい
私が
ここへ来た
「第3目的」

「蒜山高原でも学位(博士号)を取得できるということを示すこと」
である。

京大を意志したのは
大阪府立北野高等学校へ合格した時の
私自身である。

その意志は
神の意志でも
仏の意向でも
ない。

また
宗教体験は
神仏の意志であるが

哲学が好きで
哲学を創造することが
私の生き甲斐であることは
私自身の好みであるが

それは
単なる趣味ではなく
私の「純粋自己願望」であり
私の「DNA」レベルで
私をして「哲学」を「好き」にしている
のであるから

私の意志であるというよりも
むしろ
私の祖先の意志であるから
これは
私の内在超越者(仏)の意志であろう。

「第3目的」を
「蒜山高原でも博士の学位が取得できることを示すこと」
とするのは

そもそも
「京大」を
(大学は既に大阪市立大学を卒業しているにもかかわらず)
わざわざ何度も受験して合格し

「京大大学院修士課程」を
(大学院も修士課程は関西大学大学院で修了しているにもかかわらず)
受験して合格して
(2年ではなく3年かかって)

ようやく
京大大学院の博士後期課程へ
「進学」して
その後
(所定の3年で修了または退学するのではなく)
9年という「最長修業年限」まで
在籍し続けた
のも

私の
「無限に生み出し続けることのできる哲学」

「賛成するしないに関わらず
 つまり
 好むと好まざるとにかかわらず
 誰もが認めざるを得ない
 学術性」

それ故
「歴史に残る普遍性」

与えんがため
であった。

或る人の
「書く文章」や「行為」

「最も信頼を付与するもの」

研究書(学術書)である場合は
「学位(博士号)」
であると判断する
が故に

「博士号」の「取得」

たとえ
「研究者としては墓場(終わった)」
でしかない
「田舎」
(そんなことを言うなら
 シェリングの『啓示の哲学』のベルリン大学講義を
 「全訳」した諸岡道比古先生も
 出身大学の東北大学ではなく
 弘前大学に赴任した時点で
 「研究者としては終わった」
 と言わなければならないが
 それでも諸岡先生はその地で
 シェリングの『啓示の哲学』ベルリン大学講義を
 「全訳」された。
 ただし、創造的な哲学書を出されたか
 というとそうではなかったが。)
で住んでいたとしても

博士の学位を取得する学術書を
書き続けることができる
ということを示すことができれば
それに越したことはない。

なので
このことも
「第3目的」として
定めて
自分の
「追求課題」
としておきたい。

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最終更新
令和3(2021)年12月21日 21時57分
令和3(2021)年12月22日  7時12分
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