�� 国家政治保安部が農場でのアナコンダの処理に失敗
「落ちついてください、まあ立ち上がらずに、どうか、どうですクワスでも。
いらない？ それなら温かいミルクはどうです、まず気を鎮めて」
旧ドゥギノ駅駐在の勇敢きわまる政治保安員シチューキンは
待合室で震えている白髪の男を持て余していた。「とにかくそのやくざな笛を
机に置いたらどうなのです」。ところがロックの手の指は根を張ったように
離れない。力自慢の男ふたりでどうにかむしり取る始末。あの顚末のあとロックは
わずか五露里の道のりを一晩かけてびくびくとここまでたどり着いたのだった。
今は早朝、マーニャの死んだ翌くる日である。
「とにかくバイクで行ってみよう。どうせサーカスの脱走ヘビさ」
「そんなんじゃない…なぜ信じてくれないのです！ 妻がどこにいると思うのです」
わななくロックをあとにして、ふたりを乗せたサイドカーは去る。
シチューキンは五十連発の電気銃、連れのポライチスは弾帯つきの機関銃、ロックが
夜通し歩いた道を十五分ほどで折り返した。セレスネフスクの湖沼に着くと
異様なまでの静けさであった。誰か聞くかと角笛を吹くも…応える声のひとつもない。
ソフホーズの建物を覗けば、床に食器が散乱していた。
「おーい、誰かいないのか…！ こいつは変だ。確かになにか起こったらしい」
庭にまわると庭のはずれに温室があった。そこでなにやらの気配がする。ふたりは
そろそろ近づいた。そうしてぎくりと立ち止まった。ガラスの向こうに
床といわず壁といわず、無数の爬虫がうごめいていた。かれらが這いずる腹の下で
割れた卵がめりめり鳴った。なにか大きな写真機のような箱が三台あったようだが
蛇どもにおされへしゃげて倒れ、赤い光が部屋に満ちていた。おまけに巨大な鶏か、
いやそれはたぶん駝鳥だったろう――それと並んで銃を持った警備兵が
身じろぎもせず倒れていた。「撤退だ！」叫ぶや否やシチューキンは最新兵器を
ぶっ放す。五六発打つと温室はめらめらと怒りに膨れあがった。ソフホーズ中で
呼応する得体の知れない叫び声。ポライチスもまた勇敢に旧式銃を撃ちまくる。
そのポライチスの足元から脛に咬みついたものがある。湾曲した脚、土色の胴、
のこぎりの尾と顔いっぱいの裂けた口。納屋のかげから飛び出したワニは、
なんなくポライシスをなぎ倒した。「助けてくれ！」と叫んだ時には機関銃を持つ
右腕はボキリと食いちぎられてた。シチューキンははっと振り返り、蛮勇をふるって
ワニの頭に二発お見舞いした。ぐったりのびたワニの横で「逃げろ、シチューキン」と
同僚が言う。シチューキンは温室に向けて、幾匹かの大蛇を射殺した。しかしとうとう
深緑色の十メートルもあろうかという怪物がするする這いだして、あっというまに
哀れな兵士の両足と胴に絡みついた。かれはなおも応戦しようと腰のナイフに
手を伸ばしたが、委細構わず大ヘビは兵士の胴を締めあげて、ボギボギとくだき、
やがて、いっさいの銃声は絶えた。あとには蛇らの息づかいのほか
死の沈黙しか残らなかった。わずか数分の出来事である。
��事件が広まり暴動へ発展、ペルシコフが事態を把握
「これはいったいなんたることだ。ソフホーズには鶏卵が着いて、実験を始めると
連絡が来た。一方こちらは待ちぼうけだ。それは珍しい種もあろうから捕獲に
十日か二週間かかるとしても遅すぎる。ロンドンからなら飛んで半日だ。
これだからロシアの郵便事業は…」ペルシコフ教授は怒っていた。
だが彼はまだ知らなかったのだ、夜が明けようとも注文の品はもう来ないことを。
「ぐずぐずするな、追加速報だ、朝刊のあとすぐに刷るんだ！」
イズヴェスチヤの編集局では修羅場のような騒ぎが起きていた。十五分ごとに
入ってくる異様なニュースの数々は、そいつがもはやオカルトやゴシップの類いで
ないことをいやが応にも分からせた。植字工たちは家に帰らず、記者たちは
しっきりなしに記事を持ち込んだ。事務所の電話は鳴り続け、交換台は機械のように
「お話し中です」を繰り返した。
「飛行機から毒ガスを散布しよう！」「それしかねえが、なんてえこった」
「これというのもペルシコフのせえだ、銃殺しても飽き足らねえ」
「いやペルシコフのせえじゃねえ、ソフホーズが抜け駆けしやがったんだ」
「厳重な護衛が必要だった！」「でえいちありゃあ、鶏卵だったのか…？」
最後のふとしたこのつぶやきに、植字工たちはしんと黙った。
老いた博士はそんなことは知らぬ。午前の便でようやくに研究所に小包が届いたのだ。
「とうとう来たか。それも意外に大量だ。パンクラート！ 梃子とやっとこを持ってこい」
ところが丁寧な梱包をはずすと博士はまたぞろ頭へきた。
「なんだこれは。これはただの鶏卵じゃないか。こんなものはオムレツにでもしてしまえ」
そこへ朝からいつもにも似ず大恐慌で駈け込んできたのは助手のイワーノフ、
「先生、大変です、例のソフホーズの実験が…」
「それよりこれを見てくれたまえ！ 連中の無能にはあきれかえる。わしの駝鳥は？
アリゲーターは？ ボアにパイソンにアナコンダは？」
「なんてこった…それですっかり分かりました。先生、畜産部長のポロシュークめ、
宛先をあべこべに書いたんだ。連中がほしがってた鶏卵がこれです。そして先生の
爬虫の卵がぜんぶあっちに行っちまったんだ」
「どういうことだね。何を言ってるか分からんが」
「これです！」イワノフはつい今しがた街頭で得た号外刷りを突き出した。
「これは航空写真です。何が写ってるかお分かりですか。蛇です、鰐です、駝鳥です」
驚愕のあまりぽっかりとペルシコフは口を開けた。「たしかにこれは爬虫類だ」
「いいですか、これはスモレンスクの鰐の群れです。北緯五十五度の大群です！
はっは！ こりゃあこの先が見ものです。まったく想像もつきませんや。
『蛇はモジャイスク方面へ侵攻中、無数の卵を産み落としながら。卵はいたるところで
見つかっている。鰐と駝鳥も出現した。ゲー・ペー・ウーの特殊部隊と勇猛果敢な
騎兵隊は、ヴャージマ郊外の森に火を放って蛇軍の進路を沮み、からくも同市の
パニックを鎮圧することに成功した…』こりゃあ見ものですよ先生。天につば吐き
科学を軽んじるとどんな目に遭うか…あっ、どうしました？」
��暴動に巻き込まれペルシコフ死亡
ペルシコフは卒倒した。
たおれた博士などにはお構いなしに、モスクワは恐慌に陥っていた。四百万の住民が
誰ひとりとして眠りもやらず、すべての電灯をつけっ放しに
退避でてんやわんやであった。道路は空前の混み合いよう、とりわけ海とか
キエフに向かう鉄道駅へと続く道は煉獄のごとき阿鼻叫喚、駅では駅で
客車や貨車やタンク車までも数珠つなぎにして運べる限りの避難民を載せたが
数百万の人民をいちにちかそこらで運ぶなどとは、同志レーニンでも無理な話だ。
市電もバスも立ち往生してはぐれた迷子が泣き叫び、ちぎれて飛んだ戒厳令の
ポスターが泥にまみれていた。その甃の喧噪の向こうから整然と近づく物音、おお
それこそは一個連隊の騎馬の列、槍を掲げて胸を張る、コサック以来の主戦力だ。
群衆はにわかに生気を得て、「万歳！」「騎兵隊万歳！」「押すな、彼らを通すんだ！」
素顔の騎兵のあとからは防毒マスクに顔を覆いボンベを背負った異形の一団、
さらに続いて長いホースのタンク車や、パイプを突き出した戦車の群れが
『ガス』『化学薬品車』など物騒なラベルを見せて練り進む。その日のうちに号外は
スモレンスクの全焼と、砲兵隊の前線の模様、飛行中隊の毒ガス散布、逃げ遅れた
村人の多数の犠牲、独立コーカサス騎兵連隊の駝鳥の群れへのめざましい戦果、
そうして万が一阻止できずに蛇軍がモスクワに迫った場合の冷静な行動を呼びかけた。
ところが研究所は静かだった。いまや揺り椅子に乗せられた老教授は
パンクラートとマリアとともに、ひっそりと滅びを待ち構えていた。時折遠い銃声が
おそらく暴徒を制圧しようと発砲をはじめた治安部隊だが――聞こえてきたが
それ以外は、駅から遠い研究所は、抜け殻のようにがらんとしていた。
ペルシコフが何を思うか、亡き老人の心のうちなど後世の我々には分からない。
にわかに門前で騒ぎが起きて、守衛が出ていきもめごとが聞こえた。
乱暴にドアを叩く音、ばり、ばり、めり、と破られる音、やがて警備の兵隊が
部屋に駈け込み「先生、逃げて！ こいつは食い止められません」言うが早いか
反対側の扉から裏口へ消えていった。教授は苛立ち、奇跡のように威厳をただし
「パンクラート！」と呼ばわった。
けれどもそのころ哀れな守衛は、門前で頭をかち割られ、服は裂かれて踏みつけにされ
暴徒は屋内になだれ込んだのだ。いたぞ、奴だ、悪魔の光線、あいつがすべての元凶だ。
老いさらばえた卒中の体を揺り椅子にまかせながらそれでも鋭い眼光で
部屋に詰め寄せた群衆をねめまわして博士は言った。
「今さらここで何をする気だね。君らは敵を間違えている。君らときたらいつだって…」
鰐もかくやというO脚の上着もシャツも破れ放題の小柄な男が前に進み、棍棒で
有無を言わさぬ一撃を教授の頭に打ちおろした。それを合図に手に手に得物を
もった連中、あるいは素手の有象無象がおそいかかり老教授は
もうめちゃくちゃにつぶされていた。研究所には火が放たれた。
��寒波によって事態が収束→惨状の説明、エピローグ
数週間後――。
事態がいったいどうなったかって？ そいつはけだし簡単だ。
八月十九日から二十日にかけて、二昼夜にわたる空前の大寒波が
大いなるロシアを襲ったのだ。古老たちにも覚えがない、夏のさなかの氷点下だ。
みぞれはたちまち吹雪に変わり、まだ割れていない窓のある家は怒り狂いながら
閉じこもり、首都やメッシェラ低地を襲う突然のマローズに対抗した。
偶然か神かマルクスの守護か誰にもそれは分からなかったが、
怪物と騒憂と天変地異とのカルタの役満で負けかと思えば、あに図らんや
この酷寒こそが最後の手札で、意外な逆転を結果した。
爬虫類どもは全滅した。すべて熱帯の猛獣どもはロシア人より寒さに弱く
わずか二晩で死に絶えたのだ。ロックが見とがめたまだらの卵は
まだそここに転がっていたが、今は中まで凍りつき、人畜無害な遺物となった。
三州にわたる広大な地域に腐臭と汚濁が残されて、ひどい疫病は流行し、
スモレンスクの復興は遅れ、念には念と巡回する軍は当分人をおびやかしたが
すべてそれらは事後のこと。緊急事態の時節はすぎた。
ロックは杳として行方が知れない。いても正気を失っていてはもう
ものの役には立たなかったろう。畜産部長は解任された。イズベスチヤは
この夏の豊作が台無しになった責任を誰に押しつけるか当惑していた。
バスも市電も路線に戻り、貨車やタンクは物資を載せた。すべて日常に戻ろうとしていた。
ペルシコフは無銘の墓所に収まった。パンクラートとマリアの遺骸は
それぞれの故郷に引き取られた。暗室はそのまま廃棄された。
ただし助教授のイワノフは、頓挫したとはいえ生物学に革命を起こしかけたあの光線、
「赤色光線」を諦めきれず、ずいぶん長い期間にわたり、レフやレンズをいじくって
あの構造の再現を試みていたが無駄だった。二度と生命光線が
シャーレを照らすことはなかった。あの結合を生み出すためには知識だけでは足りなくて
なにか天賦の閃きが必要だったらしいことに、気づいて助手のイワーノフは
みずからの凡才にあきれるのだった。
（終）
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