運命の卵 ブルガーコフの原作による12景
�．廛蹈蹇璽亜�舞台とペルシコフの紹介
一千九百二十年、白軍の逃げたモスクワでは、小麦とアパートが不足していた。
発生学のペルシーコフ教授、見事に禿げあがった頭を叩き
家政婦のマリアにぼやいてこう言う。
「もしあいつらがこういう愚行をこれから先も続けるならば
いいかねマリア、わしは断乎として抗議する、
第一に、四部屋あった研究室の三つまでもが接収された。
パン焼き職人や旋盤工、靴屋に馬丁を住まわせるとさ。おかげをもってこりゃどうだ、
蛇や蛙とおまえさんとが、わしと一部屋に住まなきゃならん。
いくら私が偏屈だとてあんたにそんな苦労はさせん。分かるかねマリア、この部屋には
あんたのかわりに大型の顕微鏡と飼育器こそが、科学のためには必要なのだ。
第二に貴重なスリナム原種の十三センチもあるヒキガエルと
守衛のヴラスがいちどきに死んだ。死因は明らか、『飼料不足』さ、
ヴラスにはいくらばかりかの小麦粉が、蛙にゃ粉につく蠕虫が必要だったというわけさ。
人民委員ルチャナルスキーのこれは明確な失態だが、それなのに
抗議したくとも電話もない、とこういった有様ではな、いかんともはや」
おおうら若きソヴィエトの曙がはらむ悲喜劇は
衣食住の根幹をもって、人民を舞台に上げたのだ。これはそういう物語、
絶滅したのはスリナムの蛙ひとりにとどまらない。
我々がなにをもってなにと闘い、偶然のように勝利したのか
神の手か何か不明だがとにかく赤いソヴィエトが全力挙げて立ち向かった
運命というか宿命とのせめぎあいをばごろうじろ――。
ところで不運にも浮沈がある。二十六年ともなれば
ソ連とアメリカの合弁会社がモスクワ近郊に集合住宅を三百棟も新築して
住居不足は一気に解消、食料も徐々に戻ってきた。
二十八年に至っては年の初めから暖かく、今年はどうも豊作らしいと百姓たちも安堵した。
ペルシコフ先生の研究所もクリーム色に建て直され、
あらたな機材や蛙どもが次々運び込まれてき、学生たちも戻ってきた。
心置きなくペルシコフは論文も書けば講義もし、たくさんの生徒を落第させた。いわく
「どうして爬虫と両棲の区別すら君は知らないのかね？
骨盤突起が退化して消えてしまったのが両棲類。
いや恥ずかしいことだ。次の生徒を！」
こういった次第でペルシコフの穏やかな生活は回復した――。
�▲撻襯轡灰佞�何かを発見
ある日、教授のペルシコフは、変哲もないアメーバの擬足を観察するために
対物レンズの焦点やレフの角度をいじっていた。
うまくしないとおかしな赤い、フレアが視野に入りこむ。
大した調整ではないものの、不意に助教授のイワノフが戸口の外から声をかけた。
「先生、オカ川で採ってきた蛙の腸間膜標本をセットしました、ご覧になれます」
主任教授はアメーバはそのまま置いておっとり刀で哀れなる無尾類の種を見にいった。
蛙はコルク台に展翅され、恨めしそうに死にかけていた。
「なかなかいい」
とペルシコフ。雨蛙にしたらとんでもないこと、死にながら人間をにらみつけた。
血が凝固して観察ができなくなるとペルシコフは満足して部屋に戻り、
蛙は「悪党め…なんというひどい悪党どもだ」と呟きながら絶命した。
さてアメーバに戻った教授は接眼レンズをのぞき込む。とたん、
ぎくりと息をのみ、目をこすっては、も一度覗きなおしたものだ。
それから深呼吸をひとつして、連邦が誇る科学の権威はひとことこう、つぶやいた。
「なんだこれは…」
博士は無能の人ではない。どころか欧州にも三人とはいぬ
発生学の練達者だ。その大教授がもいちど覗き、途方に暮れてもいちどうめく。
「こんなことはあり得ない…突き止めてやるぞ、何が起きたか」――。
起こっていたことはこうである。先ほどのなんということのない赤い光、
それに照らされたアメーバが、どういうわけだかえらい速度で膨張し、
分裂し、光のなかに入ろうとし、互いに膨れ、食い合ってひどい争いをやっていた。
分裂した個はほんの数秒であらたな個体に成熟する。小さなシャーレで
領土を取り合い、あい滅ぼしあう凶悪さ！ 教授はながらく呆然としていた。そして
「パンクラート！」
パンクラートとはヴラスのあと来た若い守衛ですこし足りない、じつに実直な若者だった。
「私はちょっと散歩してくる。そのかん誰もこの部屋に入れないように。分かったね」
「アイアイ」
そういうわけでペルシーコフは今起きたことを道すがら考え直す散歩に出た。
二十八年モスクワの夜は呑んだくれの若僧に満ちており、三人連れの自動車から
「よう、爺さん！あんた長靴がちんばだぜ」
「呑みすぎたのね、羨ましい」
「アリカザールはまだ開いてるかい？」
ゲラゲラ笑い声が投げつけられる。教授はフンと鼻を鳴らし、ちんばの沓を引きながら
「いやいやどうして、そんなことが…なぜ誰も気づかなかったのだ」
呟きながら通りを征く。プレチステンカの街路樹には
朝日が鮮やかに差しかけた。いつか翌日になっていたのだ。
��赤い光を捕捉→ボックス装置を開発
その日いっぱいと翌日を丸々使いペルシコフは光線のコツをつかもうとした。
夜も寝やらず食餌もとらず、わずかに煙草を気付け薬に
二昼夜観察したのちに、教授は助手のイワノフを呼び、
いっさいのことを打ち明けた。
イワノフは、雷に打たれた人のよう、ほとんど恐怖の面持ちで、接眼レンズに飛びついた。
「なんてことですか先生！まあ見て下さい、連中ときたら、見る見るうちに殖えていく」
「私はそれをもう三日も見ているんだよ」とペルシコフは、煙草のいがら声で応えた。
それからふたりの生物学者は善後のことを検討する。すなわち
たまたま得られたこの結果を計画に沿った実験としてどうやったらば組み立てられよう。
ペルシーコフの頭脳とセンスは、くだんの光線が自然界には、すなわち太陽光には
存在しないスペクトルなことを、この両日で見抜いていた。
夏のダーチャを自前で建てるほどには器用な助手のイワノフ、
電気で済むならお安い御用と
「それならただの顕微鏡でなく、ちょっとした暗室をこさえましょう。
なに、先生は工学系の道具さえ発注してくだされば、ほんのその間にわたくしは
池のはたにでもあるようないかした小屋を建てますよ」
こうして赤色光線はふたりの学者の心をも激しい情動に駆りたてたのだ。
教育人民委員部を通して注文した品物が、数日後にはベルリンから来た。
梱包を解くとカール・ツァイスの銘の入った、二重凸面、また凹面鏡、さては
凹凸両用の磨きガラスまでが入っていた。
「こいつは素敵だ、さすがドイツの仕事は違う」
張り切り倒したイワーノフは日に夜を継いでの大工仕事をわずか数日で終わらせた。
さて新築の暗室で組みあげられた装置によって照射された光線こそは、
幅四センチで色彩も濃く、鋭敏で強力、文句なしのできばえだった。
有頂天になった老教授はさっそくオカ川の蛙が産んだ卵嚢を用いて実験にかかる。
結果はめざましいものだった。わずか二昼夜で何千というおたまじゃくしが
孵ったが、さらに一晩でそいつらは獰猛な親蛙に成長した。
あまり大食いなものだから、共食い半日で半分の数まで減ったほどである。
ところが残った半数は排卵期などまったく無視してどんどん卵を産み始め、
研究室はあふれだしたおたまじゃくしやけたたましく啼く親どもで、蛙鳴匙噪、
奇想天外の騒動となった。気の小さいパンクラートなどは悪魔を見る目で教授を見た。
ペルシコフ自身、自分は正気を失ったかと思ったほどだ。収拾がつかなくなる前に
三人は防毒マスクを身につけて、エーテルとシアン化カリウムの
毒ガスを部屋に噴霧した。かくして沼の一族は科学の前に全滅し、
教授とイワノフとパンクラートはやれやれと胸をなでおろした。
ところが博士はまだ知らなかった。蛙どもの脱走は食い止めたものの
もっとやっかいなものの漏洩には、彼らは成功していなかった。
�さ�事が記載→取材陣・GPUの押しかけ→誤報騒動
どこから洩れたか分からないが、センセーショナルなニュースというものは
おのずから広まるものらしい。ちょうど新聞も夏枯れでニュースに
飢えていたのだろうか、生まれたばかりの光線の記事が話題にのぼりはじめた。
いわく「国立第四大学の『ペヴシコフ』が下等動物の有機体の活動力を
信じがたく高める光線を発明した」。雑誌「赤い灯」「赤い雑誌」
「赤いサーチライト」「赤い胡椒」、そうして夕刊「赤いモスクワ」。
初めは教授も「ペヴシコフとは誰のことだね、ほら吹きどもが」と馬鹿にしてたが
とうとう、呼び鈴が鳴り出したのだ。
「先生、お客様ですが」パンクラートがおずおず伝える。
「取材なら何も答えることはない、帰ってもらえ」
「アイアイ、ですが…」
「どうしたのだね」
「ゲー・ペー・ウーからいらしたそうで」。
ため息をついて迎え入れると、ブロンスキーと名乗る青年が神経質そうに現れた。
「なんの用かね」雷のように苛立った声でペルシコフ。パンクラートは逃げだした。
「どうか、先生。どうかお許し願います。貴重なお時間をさいていただき本当に感謝いたします。とはいえすでに全世界に知れ渡りましたこのたびの新発見のお話は全ソヴィエトの人民に共有されべきと考えまして。尊敬いたします先生は新しい生命光線を発明なさったそうですが、それは原形質の活動を何倍ほどに高めるのでしょう？ 巨大な親に育つのですか？ 二昼夜のうちにひとつのランから二百万匹のおたまじゃくしが生まれるというのは本当でしょうか。雨蛙のラン半ポンドからならどれだけの子が得られましょう。畜産業の将来に大革命をもたらす道がいま開けようとしていることに先生はどう取り組まれるおつもりか、抱負のほどをお聞かせください。それと教授のお写真を一枚拝借したいのですが、古い写真でも結構です」
「パンクラート、お送りしろ」
「なんでしたら表に写真係も控えております」
「パンクラート！」
青年はつむじ風のように立ち去った。それと入れ替えにゴトリ、ズルズルと金属の
音を引きずってぜんぜん別のでっぷり太った義足の男が入ってきた。
「先生、研究に没頭なさっているところ、私のような門外漢がお邪魔したこと…」
「パンクラート！」
「まあ、まあ教授、落ちついて。私は人民委員部の産業通報『赤い鴉』の記者でして」
「パンクラート！！」だがパンクラートは来なかった、
なぜならその時控えの部屋では次から次へと電話が鳴って、あわれな守衛は聞き慣れない
ドイツ語の電話にかかりきりだった。
「ヘル・プロフェッソル、フェルツェアイエン・ジ・ビッテ、ダス・イッヒ・シュテーレ、イッヒ・ビン・アイン・ミタルバイテル・デス・ベルリーゲル・ダーゲブラッツ！」
「先生、日刊ベルリンからお電話で…！」
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