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2021年12月05日23:02

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京大の図書館を自由に活用出来る環境を捨てて、蒜山高原の古民家へ引っ越した意味を考える(2)

(2)第二目的は
   自由に哲学を創造すること。

京大(京都)に居る時は
学位取得最優先だった。

そのことは
今も諦めたわけではない。

けれども
学位(博士号)の取得を
蒜山高原の古民家では
「最優先」にしなくなった。

蒜山高原の古民家での
「最優先」は
「本当に歴史的価値のある哲学書を生むこと」
である。

「学位」ではなく
「歴史的価値」が
「最優先事項」と成った。

「学位」は
「学術の技法の修得」と
「学術書を書く技能」を
保証するので
学位(博士号)を取得していないと
「それ以下」と見做されても
反論出来ない。

その為の
「京大での19年間」であり
まだ学術誌の査読を通過する論文が書けないままで居るのだけれども
私は(チャットやズームを拒否するのと同じ理由で)
単に「この方法で書かれた論文が優秀な論文だと思えない」だけであり
むしろ「この方法で書く習慣が出来て仕舞うと後に戻れないようになってしまう」
ということを危惧しているからだ。

というのは
「査読を通す」
というのは
決して
能動態的な行為でも
ましてや
中動態的な行為ではなく
単に受動態的な行為でしかなく

「受動態的な行為」に馴らされた者は
洗脳されてしまって
それ以後
決して能動態的な文章も
ましてや中動態的な文章は
書けなくなってしまうのではないか
という疑問を抱くに至る事例が
多々あるからだ。

例えば私は宗教体験を持つということは
実証や論証よりも
優位であると思うのだが
宗教体験を評価する査読が
どこにも存在していないし
そもそも
宗教体験は
自証現象であって
自発現象であり
偶発現象であるが故に

「査読」というシステムに
収まる筈の無い類(たぐ)いのものである
からだ。

なので
そういった
「査読システム」
から離れて
自由に宗教体験を表現したいし
(聖書や経典はその類いの書物だ。
 査読なんて経た文章はお経にならないし)
宗教体験の自由な発動が残ることこそ
歴史的価値と成る。
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