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2021年12月05日15:15

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田宮虎彦「落人」 2/2

3.

 剛太郎はいつから逃げようと思いはじめていたのか。それは或は剛太郎自身にもわからぬことかもしれぬ。少くとも御近習頭の鈴木主税の腹心として、恭順派の藩老鈴木鼎を藩論決定の重役会議の直前に斬った時や、主税をそそのかして仙人沼峠の土橋の曲りに薩軍の軍使を斬った時には、剛太郎の心にはそんな逃亡の企てなど微塵も芽ぶいていなかったに違いない。逃亡の企てどころか、黒くふとい毛虫眉には、勝ち抜くことを夢にもうたがっていぬ愚かしい倨傲がびくびくと脈うっていた。――負けることを知らぬ黒菅武士が薩長の眼の玉をひんむいてみせる。剛太郎は六尺近い長身の腰に三尺の長刀をさして、常にそう豪語していたのであった。
 剛太郎が黒菅藩に召し抱えられたのは藩主山中和泉守重治が老中として江戸の台閣に列していた時であった。上総松戸在の小野派一刀流浅利義明の道場にいたのを、御指南役として召されたのである。しかし、剛太郎は黒菅藩と何の縁故もなかったというのではない。もともと黒菅藩の百石取、御広敷御用人の家柄の出であったのだが、剛太郎の父が役目に粗相があって同役助におとされた。剛太郎の父はそれをうらんで脱藩し、江戸界隈を流浪して歩いていたのだが、その父が死んで、剛太郎が浅利義明門下で高名をはせていたところから、召しかえされたのである。
 だから、剛太郎は己れの力のみで浪々の身から指南役になったとはいえない。勿論、指南役に召されるだけの力は剛太郎にあった。浅利道場といえば小野派一刀流の本家道場である。その師範代であったのだから、剛太郎としてはその己れの力を信じたとしても過信とはいえぬかもしれぬのである。六十石をたまわっていたが、この石高は小藩の黒菅ではかなりの食禄であった。いきおい剛太郎は己れより小身のものには傲慢な振る舞いをきわめた。たとえば藩の指南役故、藩中の子弟には束脩なしに教授をすべきであるが、束脩というのではなしに包み金か、それに相応するつけとどけをするものには懇切に教えたが、それの出来ぬ小身者の子弟には、剛太郎はお座なりな教授しかしなかった。だが、武士といっても、そのような処世術は当時としても何も珍しいものではなかった。多少はどの藩士の心の隅にもそんな功利心は潜んでいたともいい得るのであったから、それだけでは他の藩士のそしりをうける筈ではなかったが、剛太郎の立身欲にはもっと露骨な面があった。それは、御近習頭の鈴木主税が藩主和泉守のおおぼえめでたいと知ると、剛太郎が主税に臆面もなく媚びへつらったことである。
 鈴木主税は三八歳、剛太郎は三九歳であった。年齢の近いところから、藩の重役としては主税がもっとも近づきやすかったのかもしれぬが、江戸在勤中、剛太郎は主税に女を世話することまでやってのけた。剛太郎が召しかえされた時、三十石をたまわっていたが、やがて主税の口添えで五十石取にまでなり上った。
 もっとも剛太郎にいわせれば、山崎の家はもとは百石取の家柄である。殿の勘気をゆるされて再び召されたとなれば、もとの御広敷御用人格の百石取にまでなることは理の当然であった。それをさえぎったのが首席藩老山中陸奥であると、剛太郎は主税からきかされていた。陸奥の言い分は、剛太郎の父の剛之進が御用人助におとされた時は食禄も五十石にけずられていたのであるから、剛太郎がもとの百石を賜るためには、ただ剣道上手というだけではかなわぬというのであった。さほどの忠勤もなしに百石取の家格にまでとりたてられることは、他の藩士への差障りもあるのである。三十石取が五十石を賜るようになったことさえが破格の恩典であったといえるのだった。
 剛太郎にその陸奥をうらむ筋合いはさらさらなかったのだが、剛太郎の心の底には反陸奥の逆心が沸き立つようにつのっていった。陸奥は藩主和泉守重治の大叔父である。藩老といっても、藩の実権はことごとく陸奥の掌中にあった。藩主の眼鏡にかなった主税も、陸奥がいては自分の思いのかなわぬことが多かった。陸奥に対する不平の徒は相よって徹心党という徒党を結んで、結局は陸奥を熊坂村の山荘に隠棲せしめるまでの陰謀をはかった。そして、それはそれで成功した。主税や剛太郎は己れらの傀儡として陸奥とかわって山中重徳を首席藩老におした。そのどさくさに乗じて剛太郎はもとの百石取になろうとしたのであったが、それは陸奥の旨をうけた藩の重役の一人、御勘定奉行の勝田三右衛門が首をたてにふらず、結局は十石加増の六十石取ということで落着したのである。
 剛太郎が鈴木主税と事をともにしていたにはこのような経緯があった。剛太郎は西国勢を破ることで、宿願の百石取の家柄をとりもどし得ると考えていた。剛太郎が陸奥の恭順を喜ばなかった二重三重の理由がここにあったのである。
 あらゆる謀略をはかってまでも、己れのこのいやしい願望を剛太郎は達しようとしていた。黒菅藩の大義名分をとなえ、必ず勝つと叫んでいた剛太郎の心の底には、事実黒菅藩の存立も興廃もなかったともいえようか。薩長に盾つくことは、黒菅藩のためにではなく、実は剛太郎一人のためであったのである。
 それならば、剛太郎は西国勢に勝つと考えていたのであろうか。剛太郎は無心に勝利を信じていたのである。剛太郎のみでなく、鈴木主税もまたその他の徹心党の徒党たちも、もし必死の反撃を北上する西国勢に加えるならば、戦いに勝ち得ないまでも、己れが敗れることはないという考えをいだいていた。戦いつづけている中には死中の活も得られようし、すでに恭順を誓っている奥羽越三十一列藩も、再び矛を逆まにして、薩長勢を西国の果てに追いやることも出来ようというものである。東北の辺隅にあって比較するものを知らなかった徒党には、黒菅こそが天下であり、己れらのみが剛勇であった。いたずらに薩長に屈しようとしている陸奥たちは、獅子身中の虫であった。この虫を倒せば、己れらは真に剛勇たり得るであろう――元込銃もライフル砲も知らぬものには、剛刀、弩弓こそが最強の武器であったのである。
 剛太郎がその倨傲の精神に力の萎えを感じたのは、西国勢が己れらの守っている鉢甲の備えに攻めこんで来た時であった。剛太郎は、うちかけて来る元込銃のただなかに斬り込んでいった主税が呆気なく倒れたのをみた時、自分の目が信じられなかった。あまりのもろさに息をのむ思いが、つづいて心をかけめぐった。事実は主税は敵の元込銃の銃弾に倒れたのではない。味方の鹿柴から射た矢に後頸から咽喉もとを射ぬかれてたおれたのだが、乱戦で己れも危うかった剛太郎にはその矢はみえず、倒れた主税のうつぶせた姿だけがみえたのであった。
 剛太郎は刃渡り三尺の長刀を得意にしていたが、西国勢は決してその三尺の長刀の及ぶ身近さには近よって来なかった。必ず遠方からキューンキューンと弾道の唸りひびく元込銃をうちかけて来る。同じ鉄砲でも、ひとつ弾丸をうてば立ち上って火薬や弾丸を銃先からつめこまねばならぬ火縄銃ならば、得意の長刀をふるって敵勢のうちふところに斬りこむ力が自分にあることを剛太郎は知っていたが、敵勢の元込銃は、そのような味方の旧式火縄銃ではなかった。膝をかがめた姿勢のままで、西国勢は幾度も幾度も銃をうちかけて来た。鉢甲山の備えは僅か一日も支えることが出来ず、山裾の西山村までひいた。剛太郎らが西山村の権現の森にひいた時、手勢は鉢甲に備えたものの大半を失っていた。
 剛太郎は権現の森の松の洞にかくれて西国勢の近よるのを待った。そのころも、まだ剛太郎は負け戦さと思いたくなかった。西国勢の斥候を一人斬った。一人は斬り殺せたと思ったが、同時に、剛太郎の頬を元込銃の銃弾がかすめた。剛太郎はまた逃げた。逃げる時殺したと思った敵勢にちらっと眼をやると、その敵勢はもう白い晒布で傷の手当をして、立ち上って鉄砲方を指揮していた。
 それは、十月二十八日のことである、剛太郎は一旦城に帰って鉄砲庫にひそんだ。その頃には城からは女子供にいたるまで、竹槍をかついで敵勢につぎこんだが、剛太郎は虚脱したようにそれを見ていたにすぎぬ。そして浅利道場にいた頃、播州小野藩に己れが召抱えられようとしたことがあったことなど、ぼんやり思い浮べた。その時は指南役助という格の、食禄も僅かに二石五人扶持という小身であったので剛太郎は断ったのだが、もし、あの時己れが小野藩に仕官していたならば、今頃どうなっていただろうか。小野藩でなくても、黒菅に帰参がかなわず西国のどこかの藩に仕えていたとしたら、或はどこかの山攻めに加わって逆にこの黒菅の城を攻めていたかもしれぬ。
 剛太郎は三十日の夜、斬込隊に加わった。三十日夜は漆をながしたように一寸先もみえなかった。剛太郎は雪笹川の川土手にそって、西山、猿ヶ石の村々にいる敵の夜警を襲う手筈になっていた。だが、川土手で足をふみすべらした風をよそおい、その闇にまぎれたのである。
 しかし、剛太郎は、逃げることがこれ程むずかしいとは思いもよらなかった。檻を越えた猪が山に帰ることが容易であるように、得意の小野派一刀流が敵の囲いをきりひらいて、己れはすぐどこかへ逃げ得るものと思いこんでいた。まず笛吹峠から間道をぬって、赤石港に逃げ、船で蝦夷にでも逃げよう。蝦夷地で鰊商人にでも身をやつせば、それで事は終るのだ。徳川の天下が倒れれば、そのうちに薩長の内輪同士が戦いあうようになろう。そうなれば、この小野派一刀流の力がものをいうこともあろうというものだ。剛太郎はそう考えた。
 だが、笛吹峠にかかる山肌で夜があけてみると、前にも後ろにも右にも左にも、薩長土肥の西国勢がひしめくように道をさえぎっていた。剛太郎はもはや一歩も身動きのならぬ己れを見出したのである。峠道から小一里はいった沢にそうて、もう幾年も使い捨てられている炭焼小屋があったのを見つけると、その半ばこわれた炭焼竃の中に身をひそめたことは前に述べた。
 剛太郎は、その炭焼小屋や熊坂村の稲部屋や非人小舎に、幾日雪に塗れて己れの身を潜めたかはっきりとおぼえていない。伊兵衛の屍からはぎとった皮裘を重ね、小刀をつけ、最後にサシコの長手拭を頬にまいた時、もう非人小舎のおしづのところへ帰っては危いことを悟っていた。歯の根をガタガタ慄わせながら伊兵衛の言い残した雪笹山の熊うち小屋へは、白木村への山道と深い谷をへだてた向う岸の山道ともいえぬ崖肌をつたわねばならぬ。夜は更けていた。暁け方前に白木道にそったところはすぎていなければならぬ。剛太郎はそんな思案が心に定まると、咄嗟に脱兎のように駈け出したのであった。

4.

灰ずみ色に重くるしくよどんだ雪雲が、鷲合山のあたりでほのかにあかるんで、またたき程の間だが、あたたかい春のいろをのぞかせた。音もなく何かがうごきはじめている。深々と雪におおわれた田づらの底から、かすかに雪どけの水が流れる気配がきこえていた。雪解けの雨垂れが気ぜわしく軒をうちはじめるのもやがて間近い頃だが、蓮台村の弥作という熊うちが、春の近づいたそうした気配を待ちかねて、雪笹山の鬼面沢の熊うち小屋にのぼっていった。冬眠からさめて餌をあさりによろよろと穴を這い出して来るところを狙いうつ春の熊うちだが、いつもの年よりひと月も早く山にのぼっていったのは、去年の秋のとり入れを、黒菅勢と西国勢とに二度も徴発されて、米倉の貯えが早くもつきようとしていたからでもあった。
 二十日ばかりおくれて、三人の熊うちが弥作を追った。すでに村里には春の近づいたことが眼にみえたように、一面見さかいもなかった田づらのあちらこちらに、ぽっかりと雪割れの穴があいて、その底を流れはじめた雪解け水に、時々、さっと雪雲のまあいを覗いた青い空がかげをうつしていたが、山肌の杣道には、まだ冬がかたくなにうずくまっていた。猟師たちは踏藁で雪を踏みかため踏みかためして、杣道をのぼっていった。途中雪室を二度掘って、三日目の夕方ようやく小屋のある鬼面沢にかかる山の背を越した。熊うちたちは、雪におおわれた落葉松林のかげに、熊うち小屋が遠く見えると、オーイ、オーイと声をかぎりに呼んだ。
 しかし、その声が斜面をすべりおちて、小屋に近づいても、小屋からは弥作の姿は見えなかった。三人が小屋の戸をこじあけてはいると、土間に弥作がうつぶせになって死んでいた。肩口に刀創をうけ、創口にはどすぐろい血がこおりついていた。苦悶したのであろう、手の指は、けもののそれのように、土間の土をひっかいているのだった。そして、小屋の炉には燃えさしの薪が灰にまみれ、その炉にかかった鍋の底には焦げた飯粒が真黒にこびりついていた。長く誰かが起居していたとすぐわかるように、秋につみ重ねておいた薪の山がくずれ、米櫃も漬菜の樽も底がみえていた。
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