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2021年12月02日15:03

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不労所得とは何か(その根源は何か)

「所得(財を得ること)」とは
「他人の欲望なり要求を満たすことにより
 その対価としての財を得ること、またはその財」
のはずである。

けれども
「不労所得」
とは
「他人の欲望なり要求を満たす為の
 労働行為を行うことなく
 財を得ること」
である。

これには
「株式売却益」などが
考えられるが
「株式売却益」の場合
「株式売買行為」という「労力」が必要なので
(株の値動きを四六時中気にしていなければ成らないので
 株式売買は一度始めてしまうと
 一生株の値動きを注視することに束縛されて
 その行為から逃れられなくなってしまうという意味では
 不自由であり
 全然悠々自適ではない。)
「純粋な不労所得(労働を行わないで得た財)」ではない。

「純粋な不労所得者」とは
「何もしないで
 それゆえ
 何ものにも束縛されないで
 生活の糧を得ることが出来ている者」
のことである。

しかし
経済原理
(「等価交換」。
 つまり
 「他人の欲望や要求に応えることで
  その行為(労力)に
  見合う財(対価)を得ること」。
 なので
 「経済原理」
 とは
 「働かざる者
  食うべからずということ」
 である。)
から
「不労所得」は
外れている。

つまり
「不労所得」は
「経済原理」を
「逸脱している」。

なぜなら
「働かないのに
 食っている」
からだ。

通常
「不労所得者」
とは
「投資家」
のことを指したり
「地主」
のことだったりする。

「投資家」や「地主」も
「全く何もしないで財を得ている」
(「持ち株」や「貸している土地」は
 「勝手に財を産んでいる」ようにも見えるが
 「株」は「絶対価値」ではなく
 「土地」でさえ「絶対」ではない。
 社会の体制が変われば「無価値」に評価が変わる可能性を
 ゼロにすることは出来ないから)
わけではない。

「投資家」が
「財を得る」ために
「最も安全な株を所有する為」に
「ありとあらゆる株に関する情報を得て
 株の値動きについての原理と傾向性を知り尽くして
 その原理に応じた売買行為」を
永遠に続けなければならない。

「地主」だって
「借地人」に対して
「地代を要求する行為」と
「地代の支払いの不履行者」に対しての
「責務履行請求行為」から
自由ではない。

「投資家」であれ
「地主」であれ
「安心」して生きてゆける
わけではない。

むしろ
得た財を
「盗まれるのではないか」
あるいは
「私の財を狙って
 私の命を奪う者が
 居るのではないか」
という不安を
払拭することが出来ない。

「不労所得者」の最高峰は
「権力」の最高峰である
「国家権力」かもしれない。

「国家」
(「国家」という人間存在が居るわけではない。
 「国家組織」あるいは「国家体制」は
 人ではない。
 けれども
 「国家公務員」は
 「国家権力」の恩恵を受けて
 「不労所得」を得ることが出来る層の人間ではある。
 けれども「国家公務員」も
 「労働者層」の一部である。)

「税金」というシステムで
「不労所得」を
得ることが出来る
「権力組織」である。

「国家」あるいは
「地方自治体」というだけで
「税金」という「不労所得」を
得る「権利(権力)」が
「認められる(許容される)」。

けれども
「税金」のシステムを
運用するに当たって
「全国民」に
税金を支払うように
請求書を出したり
支払わない者に対しては
督促状を出したり
刑罰を科したり
いろいろとやるべきことが山積している。

本当の意味での
「不労所得者」は
野山に自生している
草木(植物)くらいだ。

動物は
生活の糧は
自然の恵みであるから
「お金を支払うことなく得られる食料」で生きている
わけだが
動物は24時間365日
せっせと生きる為の食料を確保する為に
動いている。

野生の動物は
生きる為にのみ
動いているように思える。

「生きること」
以外の目的を持って
何かを行為するということは
動物にとっては
そんな余裕は無いのではないか。

だから動物は
「生きる」ということに
束縛されていて
その意味で「自由」ではない。

空を飛んでいる「鳥」でも
人間は
「自由に大空を飛べる鳥は自由でいいな」
と思うかも知れないが
当の鳥にしてみれば
自由に飛んでいるのではなく
「どこかに食べるものはないか」と
必死で探しながら飛んでいるだけで
人間が考えるように
何の目的も無く
ただ「飛ぶ」と言う目的だけの為に
自由に空を飛んでいる鳥は
一羽も居ない
のかもしれない。

資本主義と言うシステムの中での
「勝者(最も高い地位に居る者)」は
「投資家(最も財を成す者)」だと言われる。

資本主義であれ
その他の社会体制であれ
世の中で
最も地位の高い人は
だいたいは
国王とか
天皇とか
そういう人たちだろう。

けれども
投資家や経営者も
国王でも天皇でも

自分の意志だけで
自由に判断して行為している人は
少ない。

国王でも
天皇でも
何らかの
「国事行為」を
為すことが課せられており
そこから逃れることは出来ない。

投資家であっても
経営者であっても
何らかの利潤追求行為から
自由ではない。

しかし
「哲人」や
(「哲学者」ではない
 「哲学者」は「専門家」であり
 大学の方針から自由ではなく
 学界の人間関係(柵(しがらみ))からも自由ではない。)
「宗教家」は
(いわゆるお坊さんや住職ではない。
 また、牧師などの聖職者でもない。
 仏教であれキリスト教であれ神道であれ
 仏事やミサ(礼拝)や神事などから
 住職や神父(牧師)や神職は
 自由ではない。

 ここで言う「宗教家」とは
 「宗教の創始者」であり
 いわゆる
 「開祖」「始祖」「祖師」「高祖」
 「元祖(がんそ)」「宗祖(しゅうそ)」
 などである。
 キリスト教では「聖者」などである。
 実際に
 「悟り」や「啓示」を体験して
 それまでの意識中心の考え方
 から
 内在超越者中心の考え方へ
 転換を遂げた者
 を意味している。)

たとえば
「樽の哲人ディオゲネス」
のように
財や名誉に関心を持たないが故に
不自然で不必要なことに埋没する必要がなく
(ギリシア時代は市民はみな貴族であり
 樽の哲人ディオゲネスといえども
 生活の糧は
 奴隷によって
 養ってもらっていただろうが)
その為
一見何もしていないようであっても
生きているのである。

また
イエスにしても
仏陀にしても
宗教の開祖(覚者や聖者)は
普通に言う意味での
「労働」に従事していない
にもかかわらず
「食べて(生きて)ゆけている(ゆくことができている)」
のである。

ここでは
資本主義社会の原理が
越えられている。

哲人と
元祖は
内在超越者を主体として生きるので
本人の
その時代の法律からの自由は無くとも
その時代の法律から自由な
内在超越者の力によって

常識では
あり得ない筈の
ミラクルで
支えられて生きることが出来る為に

普通に考えれば
あり得ないような生活が
実際に可能となる場合が多い。

精神論でも
迷信でも
思い込みでもなく

内在超越者は
そういう現象で
哲人と
宗教体験者を
生かすのである。

生かすことで
内在超越者は
内在超越者の行為を
哲人と
宗教体験者を
媒体として
実現するのだ。

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最終更新
令和3(2021)年12月2日 15時13分
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