mixiユーザー(id:2223977)

2021年11月14日23:09

86 view

妻は資本主義を越えて私の本願(宿願・本望・本懐・本意)実行を許す唯一者かも

今日は
昨日、藤井聡太三冠が
第34期竜王戦七番勝負を四連勝で竜王位を獲得して
史上最年少10代初四冠を達成した歴史的な日だったので
各新聞の朝刊では
一面で藤井聡太最年少新竜王誕生と四冠達成の祝福が
紙面を賑(にぎ)わわせていた。

フォト

フォト

また今日は
蒜山高原古民家の再生にあたって
設計を担当してくれた一級建築士さんが
御母堂と京都から
再生成った(予算の関係で完全では無いのだが)古民家を
見に来てくださった。

さて
表題の
「妻は資本主義を越えて私の本願実行を許す唯一者かも」
だけど

私の「本願(宿願・本望・本懐・本意)」

「哲学を産み続け、
 これ(哲学書)を可能な限り長く、
 誰もが自由に閲覧出来る場所(図書館)なり媒体(インターネット空間)で
 残せるようにすること」
であり
その「本願(宿願・本望・本懐・本意)」

「生活力(経済力)」

「絶対矛盾」
となって
長年「本願(宿願・本望・本懐・本意)」を
実行出来ないでいた。

この
「生活力(経済力)」
あるいは
「経済的自立」
ということは
私の
「本願(宿願・本望・本懐・本意)」達成
どころか
「本願(宿願・本望・本懐・本意)」実行

これまでずっと妨げてきた。

私が
「哲学が好きだ」
と言えば
普通の人々は
「哲学では食えない」
と言い

私が
「哲学書を書き続けたい」
と言えば
普通の人々は
「哲学書など不要」
「哲学書など誰も読まない」
と言う。

私の「本願(宿願・本望・本懐・本意)」は
その度(たび)に
実行に二の足を踏み、躊躇させられてきた。

しかし妻は
私の令和3(2021)年8月4日20時半頃の
「発狂寸前 Krisis(危機)」

目の前で
目撃して以来
(私は気を失っていたので
 私の様子がどのようであったかは
 全く知らない)
私の
「本願(宿願・本望・本懐・本意)」を
「やればいい」

「ありのまま」に
受け入れてくれる。

それは
口だけで言ってくれている
のではなく

経済的な問題も含めて
(論理的には
 或いは
 常識論的には
 決して無理な事である筈
 にもかかわらず)
「大丈夫」
と言うのだ。

その理由は
「さとぼんの力(能力、才能)は
 普通の人と全く違っていて
 さとぼんがすることは
 現金を持ってこないのに
 その現金と同じかそれ以上の現金を産んでいる」
というのだ。

そういえば

62年間
家庭教師は15年以上したし
アルバイトも何種類もしたし
就職も3ヶ月経たないうちに辞めてしまったけれども
それらを全部合計すれば
100万円や200万円は稼いだかもしれないけど
ほとんどこれまで働かずに
実際に62年間生きてきたし

それどころか
最初は庭付きの
大阪にしては広めの
古民家にような平屋に住み

その後は
二階建てに改築して(ほとんど新築)
大きな家に住み

蒜山高原に
土地200坪で建坪も100坪くらいの大きな別荘を建ててもらい

京大に入ってからは
下宿もさせてもらい

京大に自転車で通える範囲の京都に
家も建ててもらい
(この時に蒜山高原の別荘は売却した)

京大に
(休学中の3年間は学費が免除されたとはいえ)
19年間も在籍させてもらい

京都の家(生前贈与だが)も土地も
母から遺産として相続させてもらい

その遺産を売却したお金で
蒜山高原の古民家を購入し
遺産だけで(借入金無しに)
古民家のリフォーム代を完済できた。

つまり
62年間は
哲学しかしていないが
普通の人々が「食えない」と言ったにも係(かか)わらず
食べてきている。

ただし
「哲学書なんて誰も読まない」

まだ私の単著を出していないから
何とも言えないが
これまでの私の論文は
確かに誰も理解出来ないようで
やはり需要は無い。

この mixi 日記が
良い証明だ。

mixi 日記は
私の哲学日記でもあるが
ほとんど誰も読まない。

2005年12月8日から
今年の12月8日で
16年間続けていることになるが
多くの人は興味を示さない。

私が関心を持つ
私の必然性(原理)と
その実現の具体的方法は
(そしてそれを一般的で普遍的に論じているので
 誰もの必然性(原理)とその実現の具体的方法のための哲学
 なのだが、そのことに誰も気付かないのか)
誰も興味を示さない。

これまでの62年間は
哲学を研究してきただけで
決して働こうとしなかったし
働こうとしても働けなかった62年間だったが
なぜか生きてこれている。

そして妻は
その事実を
私と1995年11月19日に結婚してからこれまで
今月の19日で26年間
私と共に
私の近くにいて
私が起こす様々な現象を目撃してきた妻は
「さとぼんの力が
 勝手にお金を産んでいる」
と洞察するが故に

私が「本願(宿願・本望・本懐・本意)」だけを
実行していれば
それで「大丈夫」
と言ってくれるのだ。

しかし
これからの生活は
さすがに親も居なくなり

私と妻だけで

妻も
パニック障害と
そこから来る二次的な不安性鬱で
苦しんでいるし

私は哲学をしている時は元気で
無限に力が湧いてくるが
(その「無限に湧いてくる力」こそが
 資本主義社会の常識を越えて
 「無形の財」を齎(もたら)している
 のだろうか)

哲学以外の
生活に必要な事柄ばかりしていると
哲学が出来ないので
「無限に湧いてくる元気」の恩惠を全く受けられなくなり
精神の安定が保てない
どころか
発狂寸前に成るために
結局は
経済的にも Krisis(危機)となり
そうなるよりは
「哲学に専念していて元気である方が
 断然マシ」
という結論となる。

これまでは
その繰り返しだった。

(1)父のスパルタ教育(ピアノ)は
   私にとっては逆効果で
   今でもピアノが好きなのに
   ピアノから私を引き裂いてしまった。

(2)父のスパルタ教育もそうだが
   幼稚園時代の苛(いじ)めっ子から苛められる経験
   (といっても命令を聞かされることだから 
    暴力を振るわれたことは無いが
    それは私が従順だったからで
    逆らえば暴力を加えられていただろう)
   は
   私の中に
   「二度と
    誰にも(何ものにも)
    私は
    私を強制させない」
   という暴発装置を
   形成したのだろう。

   世の中には
   人を強制する
   多くの権力や人間が存在する。

   私には私の幼児体験の中で
   「総(すべ)ての強制を無条件に拒絶する」
   というスイッチ(ボタン)が形成されているので
   「如何なる理由であれ」
   私は「総(すべ)ての強制を無条件に拒絶する」
   ようになっている。

   そこに「理解」も「我慢」も「忍従」も無い。

   「無条件」「絶対」に「拒絶」する。

  (その意味で私は
   「強制」に対する「パニック障害」なのかもしれない。
   「強制」が目の前で発生すると自動的に「拒絶」が「反応」する。
   だったら「条件反射」ではないのか?
   「パニック障害」も「条件反射」の一つなのだろうか。)

(3)そんな中
   ピアノ以外で自然に興味を持ったのは
   将棋と哲学だった(どちらも中学二年生の頃)
   将棋は
   今でも好きだけど
   才能がなかったので
   (そろばん塾で
    小学生に
    早く指すように急(せ)かされてから
    嫌になった)
   辞めてしまったけど
   哲学は
   どうやら才能があるようで
   京大受験の時でも
   筆記試験ではいつも偏差値は80以上で
   全国1位に8回くらい成ってた。

   藤井聡太四冠のように
   四六時中
   哲学のことばかり考えてて

   哲学のことを自由に考えていることを許されている限り
   私は元気だが
   哲学のことが出来ないように
   「強制」されると
   身心共に不調を来すし
   それどころか
   死に至るように思われる。

(4)私が塾嫌いなのも
   「強制」が嫌だったからだと思う。
   中学から
   大阪府立北野高校を受験して合格した時も
   塾には行かず
   自分で計画を立てて勉強するスタイルで受かった。

   北野高校に受かって
   北野高校への世間の信頼度を実感した。

   北野高校から
   大阪市立大学へ行ってすぐに
   神経症になって
   これを治すのに
   自律性療法を発見して
  
   これも自習と同じように
   自分で問題を解決するように
   自分で自分に自律性療法を試して
   自分で神経症を治していた。

   これを1979年から11年ほど継続した時に
   宗教体験を経験した(1990年11月5日=31歳6ヶ月弱)。

(5)宗教体験を関西大学大学院修士課程で
   修士論文に纏めた。

(6)京大に行ったのは
   宗教体験を
   (北野高校で感じたのと同様に)
   信用してもらえる学歴を獲得してみせることで
   世間に通用する学歴で書いて
   信じるに足る内容であることを証明しようとした。

(7)けれども大学受験は平等な自由競走だが
   大学院になると平等で公平な原則が損なわれており
   それどころか
   語学に偏重した学力試験で
   哲学そのものの実力を問うものではなく
   研究者も純粋に哲学の内容を深めることよりも
   人付き合い(人間関係)によって
   哲学の内容を深めることを犠牲にする者が多く

   研究者や学界(学会)や教授職に
   魅力を感じなくなった(査読システムが嫌いだった)。

(8)京大に入る時
   父から
   「大学と大学院の修士課程へ行かせてやったのに
    また大学を受験するというのなら
    自分で受験費用から何から全部稼いでやりなさい」
   と言われ
   筋が通っているので
   その通りにしたけれども
   生活力がなかったのと
   経済と哲学が両立出来ず
   けれども哲学への愛は失われなかったので
   ずっと浪人状態が何十年も続いていた。

(9)そんな中
   父に命じられて始めた
   「月に3万ずつ家に生活費を入れること」
   の為に家庭教師などのアルバイトは続けていたが
   その結果、受験勉強は止(と)まってしまった。

(10)そうこうするうちに
   中学三年生時代のクラス会(同窓会)を
   20年振りに開催することになって
   私は幹事を務めて
   妻(その時はまだ二人共独身)も来てくれた。

   妻と同窓会で話した時に
   妻「浜田君は今何してんのん?」
   私「勉強」
   妻「何になるん?」
   私「先生」
   妻「私、先生嫌いやねん」
   という会話があって
   その時妻は
   「あんなに輝いていた浜田君が
    未(いま)だに何ものでもないのは
    絶対におかしい。
    この人には何かが足りていない。
    私は浜田君が輝く為に足りていないものを
    埋めるのが私の役割だ」
   と直観して
   結婚してくれたようだ。

(11)それ以来妻は
   私が再び輝けるように
   ずっとサポートし続けてくれている。

(12)にもかかわらず
   私は資本主義社会に埋没して
   「普通の人に成ることだけを求める」
   人々の考えを気にして
   (これ自体は悪いことでは無い。
    「他人の意見を尊重すること」だから。)
   「自分の必然性」を見ていなかった。

(13)むしろ妻の方が
   「私の必然性」=「哲学だけしか出来ないこと」=「哲学創造専用人間」
   ということを
   深く見抜いていた。   

(14)妻が言う
   「さとぼんは
    さとぼんが本当にやりたいことを
    気にせずやったらいい。
    収入は
    さとぼんの場合
    現金では持って来ないけれども
    同じかそれ以上に相当する物が
    さとぼんが勉強することで
    返ってきている」
   は
   理屈や常識を越えている。

   妻以外の誰も
   そんなことを言わない。

   当然だ。

   なぜなら
   「働かざる者食うべからず(勤労の義務)」
   は資本主義の原理だからだ。

   その意味で
   妻の言い分は
   資本主義を無視している。

   もしも
   妻の言うことが
   本当に正しいのなら
   資本主義の原理を越えている。

(15)私は大阪市立大学商学部1回生の頃
   「純粋自己願望」が何であるかを追求して
   「哲学を創造し続けること」
   (この頃はまだ「京大合格」や
    神経症治癒の為のストレス発散方法の一つとしての「ナナハン免許取得」
    も意志の中に入っていたので
    「京大合格」「ナナハン免許取得=自動二輪限定解除実地試験合格」
    も「純粋事故願望」の中に入っていたと思う。
    今はそのどちらも実現したので
    (そして蒜山高原に終(つい)の住み処(すみか)を得たことで)
    残るのは
    「哲学を創造し続けること」
    に絞られている。

    しかも
    偶然
    宗教体験を得ることになったので
    その「哲学」が
    「哲学的宗教」へと深化している。

    つまり私の「使命」は
    「哲学的宗教を創造し続けること」
    である。 

(16)父が死んだことで
   「京大に行くなら
    京大の学費は自分で稼ぎなさい」
   という「強制」から「自由」になった。

(17)母が死んだことで
   母との約束(これを破棄しようとは未(ま)だ思っていないが)
   である「京大で博士号を取得して京都で大学の先生になること」
   という「強制(約束)」から「自由」になった。

(18)妹を絶縁することで
   (2021年8月11日に絶縁したが、2021年11月9日に解除)
   仏事や神事の「強制(因習)」から「自由」になった。

(19)世の中には様々な「強制」がある。
   「強制」の中には
   「権力」による「義務」もあるし
   「法則」による「必然」もある。

   「強制」の中には
   「法律」を「逸脱」する「悪事」もあるし
   「法律」を「遵守」する「公事」もある。

   また
   「強制」には
   「法律」で「束縛出来ない自然法則」もある。

   私の身体が「拒絶」するのは
   (「身体」は「自然存在」だから)
   違法合法を問わず「人工的な強制(不自然な強制)」である。

   「生理的強制」に
   (それが「病理(生理を逸脱する原理)的強制」でない限り)
   私はむしろ「従順」である。

(20)私の「純粋自己願望(本願・宿願・本望・本懐・本意)」は
   私「個人の主観」を越えて私の「内在超越の意志」でもある。
   「哲学(哲学的宗教)を創造し続けること」は
   「経済的強制」や
   「世間の評価」から
   「自由」でなければならない。

(21)妻は私から
   「経済的強制」や
   「世間の評価(学歴や学位等の名声や地位)」という
   「私の使命遂行」の「足かせ(桎梏)」となっていた「鎖」を
   「解(と)き得る唯一者(唯一存在)」
   という意味で
   私の guardian goddess(守護女神)ではないのか。

   なぜなら妻は
   世間の常識を越えて
   それどころか
   資本主義社会の束縛さえも越えて
   私を自由にする場所を
   私に用意し得る存在だからだ。

   こんなに有り難いことは無い。

   誰も今まで私に私の
   「為すべきことを為すべきままに為す」ことの自由を
   与えてくれた人は居なかった。

   父も母も妹も
   それを許さない。

   妻のみが
   それを許してくれる。

   「許す」ということですらない。
   (私に2021年8月4日に生起した「発狂寸前危機事象」以来
   「気が狂われたら、それどころではない」ことから
   「さとぼんの調子(気分の安定)」は「私の安定と一心同体」
   と感じて)
   むしろ
   「懇願(頼むからそうして)」
   あるいは、そこまで行かなくても
   「そうし、そうし(是非ともそうして欲しい)」
   という「勧誘(recommendation)」
   あるいは「促(うなが)し、促進、推進(promotion)」
   だ。

   なので妻は
   私の「使命」であり
   「純粋自己願望(本願・宿願・本望・本懐・本意)」でもあるものの
   promoter(増進者、奨励者)である。

(22)「奨励」ということでは
   将棋世界における「奨励会」に通じる。

   妻は私の「哲学創造」を「奨励」してくれる
   「将棋世界における奨励会」のような存在だ。

   将棋世界における「(新進棋士)奨励会」とは
   「日本将棋連盟のプロ棋士養成機関」だそうだ(Wikipediaによる)。

   私の「哲学創造」は
   プロ棋士のように「現金収入」を産み出さないが
   「それ(現金収入)と同等かそれ以上の結果(成果)を齎(もたら)す」
   という不可思議な力を持っていると妻は言うし
   実際、これまでの人生を見れば
   奇跡としか思えない出来事が何度も生起して
   無収入の私を生かし続けている。

(23)妻の「直観」を信じてこれに従うことは
   経済が破綻するリスク
   (資本主義社会に住む者は
    何人たりとも
    資本主義の経済法則の圏外には出られない。
    ハイデッガーはそのことを
    「In-der-Welt-sein:世界-内-存在」
    と表現した。
    しかしシェリングなら
    世界を越える存在としての人間を主張するだろう。
    なぜなら人間は神話的緊張のじょうたいを媒体として
    精霊や神によって自然を越えた存在たり得ると
    シェリングは『啓示の哲学』で言っているからだ。)
   のみならず
   妻の命が尽きるリスク
   をも生じさせ得るのではないか
   という懸念がある(ということを憂慮する)。   

=======================================
最終更新
令和3(2021)年11月15日 05時02分   
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年11月>
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    

最近の日記

もっと見る