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2021年11月12日10:17

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寂聴さんの死で考えたこと

瀬戸内寂聴さんの逝去が大ニュースになった昨日、偶然にも朝日新聞に『今月の「寂聴 残された日々」は瀬戸内寂聴さん静養のため、休みます。』と記されていた。たぶん朝日も危篤のニュースはつかんでいたはずだが、校了の時点ではこう書くしかなかったのだろう。これも寂聽さんらしい計らいだったのかもしれない。

朝日のこの連載は、気になってずっと目を通してきた。といいながら記憶があまり定かではないのだけど、どうしてこの私が100歳近くまで生きてしまったのか、長く生きるとはどういうことなのか、まもなく死ぬ自分とどう向き合っているか、といったことが延々と綴られていた。その文章に衰えはまったく感じられず、3日徹夜で原稿を書いた小説家の底力に圧倒されたものだ。

一方で、寂聽さんは51歳でそれまでの業から出家した宗教家でもある。もちろん、私なんぞに面識があるはずもないが、1回だけ接点はあった。いまから35年くらい前の話だが、岩手県浄法寺町で今東光から住職を受け継いだ天台寺をたまたま取材で訪ねたのだ。ああいう性格の人だから地元の人とは本音で交流しており、「先生がお茶と言うときは湯飲みに酒を入れて持っていくんだ」という裏話を教えてくれた。人間臭さがそのまま歩いているような人。やっぱり人間は死ぬという当たり前のことを諭して旅立ったような気もする。これも巨星墜つだろうか・・・合掌。

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