これまでの哲学や宗教などの思想は
「ものの見方・考え方」
であって
「行為の指針」や「行動の指南書」
ではなかった。
しかし
哲学や宗教や思想が
「原理」と「方法」
を持つものであるならば
「原理」は「神仏や自然や世界の行為そのもの」であり
「方法」は「原理を獲得し表現し実現する人間の行為」でなければならない。
たとえば医学において
「原理」は「病理」であり
「病理」は「病の原因物質の作用機序」である。
「方法」は「医療」であり
「医療」は「病理」に基いて「症状」を「消失」させる為に必要な「行為」である。
「医師」は「病者」の「症状」を契機として
「病理」を探り
「病因」を突き止め
「症状」を「消失」させる為の「行為」により
「病者」を「苦しみ」から「救済する」ことで
「報酬を得る者」でなければならない。
しかるに
「行為」を含まない
「単なる思想」に過ぎない哲学や宗教が
これまでの思想だった。
医師が病者を苦しみから解放してこそ医師である
ように
哲学者は
人間の持つ思想の歪みを修正し
社会を人類の楽園にし得る方法を持つのでなければならない。
宗教家も
人間に欲望を克服する方法を与えて
社会を争いの無い世界に変えられる力を持つのでなければならない。
そうでない哲学者や宗教家は
患者を治せない薮医者と同じだ。
病を癒していないのに診療報酬を受け取れるシステムは
医師の生活を守るシステムであって
患者の生命を守るシステムではない。
哲学にとって
原理とは
世界の原理であり
人間の原理である。
宗教にとって
原理とは
神仏の原理である。
哲学や宗教の
方法とは
それらの原理を
獲得し表現し実現する行為のこと
である。
それは
医師が
病理を
実験によって解明し
執筆によって書籍化し
治療によって患者の無感(健康状態の回復)を実現する
使命を持つ者であるのと
同じことである。
哲学と宗教は
人間と
人間が営む社会を
本来有るべき理念へ
実現する為の行為を含むもの
であるべきだ。
これまでの哲学と宗教には
その行為が示されていなかった。
だから
これまでは
哲学も宗教も
戦争にも犯罪にも
つまりは世の中の�躇�(権力や暴力や權威や支配力)に対して
無力だった。
これからの哲学や宗教は
単に思想として表現されるだけではなく
どのようにすれば
原理からの逸脱としてのアンバランスを
修復出来るのかについての
行為が示されているべきだ。
行為は
結果を伴う。
結果が�躇�を修正する場合は善行為であり
結果が諸悪を修正出来ない場合は徒労であり
結果が諸悪を増幅させる場合は裁かれる。
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最終更新
令和3(2021)年10月24日 22時40分
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