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2021年10月06日21:58

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「博愛」=強者はどこまで譲歩せねばならないのか?

「今日の仕事は楽しみですか。」――「ディストピア」「心を折りにくる」と批判集めた品川駅の広告が終了、広告主は謝罪
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=6692374

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個々人の権利=自由
「自由」の衝突を調整する=平等
「自由」と「平等」で救いきれない人への配慮という努力目標=博愛

というところですが。

原始時代などは「弱肉強食」であり、そもそも「博愛」の概念などなかったわけです。文明や文化の発達で現代社会に多少の猶予が出てきて「博愛」をする猶予が出てきた。とはいえ社会資源は有限ですから、博愛を無限に続けることは不可能なわけです。当然に個々人に認められるべき「自由」やその自由の衝突を調整する概念である「平等」に比べると「博愛」は異なる性質を持たざるを得ません。

強者が弱者に配慮するというのは「機会の平等」ではなく「結果の平等」を目指す姿勢です。

さて、「打たれ弱い人=弱者」だと思います。そして弱者には博愛の精神で救済をすべきとは理解していますが。では弱者への配慮をどこまで行うのか? 逆に言えば「強者はどこまで譲歩しなければならないのか?」と考える次第です。 

「博愛」についてはどこか「努力目標」として歯止めをかけるべきであり、そのラインを決めるのは「強者」の側であるべきなのでしょう。

無限に譲歩を行ってしまうと強者と弱者が入れ替わってしまうわけです。そうなると「弱者のほうが有利だから皆が『弱者』になりたがる」というわけのわからないことになります。たとえば「生活保護でもらえる金銭のほうが最低賃金で働くよりも割がよいとなれば、経済的視点だけでいえば生活保護を目指すほうが合理的で効率が良いとなってしまうわけです。

過日のDaigo氏の発言のように生活保護制度を攻撃する意図はまったくありませんが「程度問題があり、調整は必要」ということが言いたいわけです。



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