mixiユーザー(id:32437106)

2021年09月05日23:26

442 view

9/5(日)独立30周年ウクライナの歴史(2)ポーランド・リトアニアの支配下での出来事(後編)他青いロブスター パラリンピック終了

9/5(日)
昨日降り続いた雨は、朝型すっかり上がっている。午前中は灰色の雲が空を覆ったものの、昼過ぎには微妙に日差が降り注いだ。

東京多摩地区の気温は、昼過ぎで接し23度、湿度は60%台半ばである。家の窓から涼しい風が吹き込んだ。季節は着実に夏から秋へと移り変わっている。

本日ネット上で、スコットランドのアバディーン沖合いで引き上げられた全身青色のロブスターが、話題になった。地元での漁師暦30年のベテランでも始めての遭遇だという。変種が誕生する割合は200万分の1、通常約1.5キロの大きさで25ポンド(約3700円)の値で取引される。地元の水族館に問い合わせをし、飼育してもらうという。

 写真=青いロブスター 掲載元 下記の記事
フォト
 
 参考記事
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=103&from=diary&id=6656084

              ・コロナ関連ニュース

 日本ではコロナの感染者数は、夏の第5波のピークを越えつつある。昨9月4日、日本全国の新規感染者数は1万6012人、感染による死亡者は60人と明らかにされた。

 本日5日、日本全国の感染者数は1万2908人、感染による死亡者は31人、重症患者数は前日比16人減となる2207人である。
 詳細9月5日の感染者数https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210905/k10013245711000.html

 コロナ禍の中で、13日に及んだパラリンピックが、本日幕を閉じた。日本選手団は金13、銀15、銅23を含む、史上2番目の51個のメダルを獲得した。過去の最高成績は、2004年アテネ大会の52個である。

 区切りを迎えたこの日、組織委員会の橋本聖子氏は、今後の五輪開催に向けての意欲を示した。真っ先に、2030年の冬季五輪の招致に乗り出す札幌市をサポートすると宣言した。冬季五輪は、年々大会経費の膨らみと共に、雪不足が重なり、立候補する国が少なくなる傾向にある。過去には最終候補地に選ばれた地域が、一般市民から反対され、撤退したケースがある。2022年大会の招致レースを例にとると、1次選考で北京(中国)、アルマトイ(カザフスタン)、オスロ(ノルウェー)の3都市が通過した。オスロは、財政面に加えて、市民の反発を招き、最終候補に残りながら、辞退を表明した。残る2都市による決選投票の末に、北京が選ばれたのである。
 異常気象により、数年先の天候は予測が付かない。日本は財政悪化に伴い、運営費用を捻出できるか懸念される。


 今回は、ウクライナの歴史、ポーランド・リトアニアの支配下での暮らしの後編、前編に掲載した第1章に続き、第2章から最終第4章である。

 ウクライナは、貴族が中心となるポーランドとリトアニアによって、民族運動を抑え込まれながら、辛うじて正教を守り抜いた。ポーランド王国とリトアニア大公国の統一から、ウクライナの肥沃な土地について紹介する。

 前回の関連日記 前編 9/3(金)独立30周年ウクライナの歴史(2)ポーランド・リトアニアの支配下での出来事(前編)

必 第一章のみ掲載 
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1980244511&owner_id=32437106

独立30周年ウクライナの歴史(2)ポーランド・リトアニアの支配下での暮らし(後編)

 写真=ウクライナの地図 旅行の友 ZenTech https://www.travel-zentech.jp/world/map/Ukraine/index.htm
 
フォト


 第2章 リトアニアとポーランドが共和国として統一する。

 東方進出を果たしたモンゴル弱体後、ポーランドとリトアニア、キエフ・ルーシが楚となるモスクワ大公国が力を伸ばした。
宗教観が異なるポーランドとリトアニアは、ウクライナを巡って争いながら、急接近するようになる。ポーランドのユダヤ人保護政策に貢献したカジェミエシ大王には跡継ぎがなく、後継者問題が深刻化した。一時ハンガリー王ラヨシュ1世(在位1370年から1382年)がポーランド王を兼ねた。ラヨシュ1世には、男子に恵まれなかった。彼の三女ヤドヴィガ(在位1384年から1399年)が女王の座につく。即位時女王ヤドヴィガは、独身で婿を探していた。ポーランド貴族の力を借りて、国に干渉しない他国の貴族を候補に選んだ。女王ヤドヴィガと婚姻関係を結んだのは、ゲディミナスの孫に当たる若きリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名ヤゲヴォ)だった。女王ヤドヴィガと夫ヨガイラによる体制が確立し、1385年にリトアニアをポーランド王国の王冠に編入することが決まった。クレヴォの合同という。ヨガイラ(リトアニア大公としての在位1377年から1392年、ポーランド王としての在位1386年から1434年)は1386年、ヴワティスワフ二世に改名し、史上初となるポーランド王とリトアニア大公を兼ねた。

 必 クレヴォは、現ベラルーシフロドナ州スマルホニ地区の町クレヴァに由来
写真=クレヴァ城跡 掲載元 
https://www.panoramas.lt/jp/panoramata/9ea927058e9dfb63563c
 フォト

 クレヴォの合同により、両国の関係性は強まった。リトアニア大公国は、ゲディミナスの孫ヴィタウタス大公(在位1392年から1440年)が、実質国のトップになり、支配地域を広げ、ドニエステル川とドニエプル川から黒海までの土地を獲得した。首都にはビリニュス大聖堂を立てる。ヨーロッパ最後の異教国家にも着実にキリスト教が広まっていた。

 ポーランド王の即位に伴いヴワティスワフ2世に改名したヨガイラと、リトアニア大公ヴィタウタスは、2度に渡って闘争を繰り広げていた。1度目は、クレヴォ合同前の1381年から1384年である。ヨガイラがヴィタウタスの父である叔父のケーストゥティスと争う目的から、ドイツ騎士団とドヴィディシュケス条約を結んだことが内戦の発端となった。ケーストゥティスは短いあいだ大公国の権力を奪取したが、ヴィリニュスの人々を始めとするヨガイラの支持者に失墜させられた。
 
 写真 赤色部分ジュマイティア公国 wikiwandより
 
フォト
    
           
ケーストゥティスとヴィタウタスは和平交渉中に捕えられ、クレヴァ城に監禁された。ケーストゥティスは監禁された1週間後に命を落とした。ヴィータスタスはどうにか脱出に成功してドイツ騎士団と同盟を結び、両者の連合軍がリトアニアに攻め入った。結局、ヨガイラ側が、態度を軟化させた。リトアニアのキリスト教の布教に向けて、モスクワ大公国やポーランド王国との交渉を進めるべく、国内の治安を安定化させる必要があった。ヴィタウタスとは和解した。

 続く3枚の写真の出展先はウィキペディア

 写真=ヴィタウタス
フォト

 権力闘争はこれでは終わらず、2度目の抗争である1389年から1392年にかけてのリトアニア内戦が、オストルフ協定の締結によって解決するまで続いた。10年以上にわたる争いの末、ヴィタウタスはリトアニア大公の座を手に入れ、以降38年間にわたって大公国を統治することになる。2度目の内戦は、ポーランド王のヨガイラが、リトアニア統治を弟のスキルガイラに任せたことが主因といわれている。リトアニア大公の座を狙うヴィタウタスが、ドイツ騎士団に支援を要請し、1390年にスキルガイラが立てこもるヴィリニュスに向かった。

 写真=ヨガイラ
 フォト

2年に渡る戦いでこう着状態となり、兵士の消耗が激しかった。そこでヨガイラが、ヴィタウタスに大公の座を譲ることで、2度の内戦に終止符を打ったのである。ドイツ騎士団は、目的を達せられないまま、後の大きな戦争に繋がる。1410年に、ドイツ騎士団は、ジェマイティア地方の獲得を目指し、ポーランドとリトアニアに宣戦布告する機会をうかがっていた。そこで、ローマ教皇に対し、ポーランド王ヴワティスワフ2世のキリスト教は偽者だと訴えた。討伐軍の結成を働きかけたのである。ドイツ騎士団とポーランド王国は、深いつながりがあった。1241年4月9日にワールシュタットの戦いで同盟を結成していた。当時ポーランド王ヘンリク2世とヴロツワフ公ミェシコ2世が指揮をとっていた。相対するモンゴル軍はバイダル、カダン、オルダの3人がそれぞれの部隊を集結させていた。戦争によって、シロンスク公国を治めていたポーランド王ヘンリク2世は戦死してしまった。その結果シロンスクとクラクフの公領は、分裂した。時が立ち、1742年にシロンスクは、第1次シュレージレン(プロイセン 対 オーストリア)戦争によって、大部分がプロイセンに併合された。

ポーランドとドイツ騎士団軍は、ワールシュタットの戦いで、モンゴル軍に敗れたものの、西方への侵攻を一定程度阻んだ効果があるといわれている。モンゴル軍は、余勢をかって西方へ進出する。同1241年4月11日にハンガリー王国のベーラ4世とのモヒの戦いで勝利したバトゥの軍隊も合流した。さらに軍勢は膨れ上がり、オーストリアのウィーンへと向うものの、急遽皇帝オゴティの訃報を知り、遠征の中断を余儀なくされた。大ハーンを決めるクリルタイ(部族会議)に出席するためである。モンゴル勢の領土拡大は、ワールシュタットの戦いとモヒの戦いで、ほぼ終ることになった。

 世紀の決戦から2世紀を経て、ポーランド王国がリトアニアを受け入れるにつれて、ドイツ騎士団との溝は深まった。ジュマイティア地方に関しては、1404年のラチョンシュの和約では再びドイツ騎士団による領有が認められていた。リトアニア大公国の統治を任されたヴィタウタスは、ジェマイティヤ住民の反騎士団運動をこっそり支援していたことは明白だった。ポーランド側も、同じカトリックのドイツ騎士団と緊張関係が続いていた。ドブジンやグダンスクの領有関係を巡って抗争中だったものの、1343年のカリシュ条約以降大きな問題は起こっていない。経済面では軋轢を抱えている。騎士団は周辺地域の三大河川(ネマン川・ヴィスワ川・ダウガヴァ川)の河口を抑え、貿易の権利を譲らなかったのである。

写真=タンネルベルクの戦いの絵
 フォト

1409年に、ジェマイティアで第2次蜂起が起こり、ヴィタウタスは真っ先に支援を行う。従兄弟のヨガイラも蜂起を指示した。ドイツ騎士団が鎮圧に向かうと、ヴィタウタス率いるリトアニアとヨガイラのポーランド軍との間で戦争が勃発した。1409年8月に騎士団はポーランド領に進入したものの、武器や兵士の不足により、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルの仲介を挟み、9ヶ月の停戦合意に至った。1410年6月に停戦合意が切れた後に、タンネンベルクの戦いにより、ポーランド・リトアニア連合軍が、ドイツ騎士団を打ち破った。翌1411年2月11日に第一次トルンの和約により、ドイツ騎士団はポーランドにドブジンを返還し、一時的ながらジェマイティアの領有権を放棄した。1414年の飢餓戦争と、1422年のゴルプ戦争という2つの短い戦争が行われ、領土争いを解決したメルノ条約が調印された。ドイツ騎士団には多額の賠償金が課せられ、国力の衰退に繋がった。



 1454年から66年の13年戦争では、ドイツ騎士団と、同地域プロイセン在住の貴族や僧侶とポーランド・リトアニア軍が戦った。1466年10月9日に第2次トルンの和約により、終結した。騎士団は、西プロイセン地域のポーランド王国の領有を認めた。
すっかり弱体化したドイツ騎士団は、1525年に騎士団長に就任したアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクにより、世俗化された。ルター派に改宗し、プロイセンによる臣従の礼をとり、ポーランド王ジグムンド1世の下で世襲統治者として公爵の位を授かった。その地域はプロシア公領(後の東プロイセン)となる。

 さてリトアニア大公国は、皇帝や王が不在ながら、東ヨーロッパの大国へ向かう過程で、モスクワ大公国との国境を巡って争うことになる。1558年から1883年までの25年に渡り、リヴォニア(現在のエストニア南部とラトビアほぼ全域)戦争が起こる。タタールの頸木を切ったイヴァン3世の息子イヴァン4世が、西ヨーロッパとの通商のため、壁となって塞がるリヴォニア騎士団に宣戦布告したことに始まる。リヴォニア騎士団は、西暦1237年にドイツ騎士団の配下に置かれ、タンネンベルクの戦いには支援に駆けつけた間柄である。ドイツ騎士団がタンネンベルクの戦いで破れ、衰退の道を歩むと、再度独立状態になる。さて、正教徒のモスクワ・ツァーリー国の皇帝イヴァン4世は、傀儡国家としてリヴォニア王国を建てることを目指していた。対抗する勢力は、リヴォニア騎士団のゴットハルト・ケトラー、デンマークのフレデリック二世、スウェーデンのエリク14世である。リトアニア大公国も1561年に同盟軍に加わった。騎士団長ゴットハルト・ケトラーは、ビリニュス協定により、世俗化することを条件に、支援を要請したのである。自らはルター派に改宗した。

写真=ゴットケルト・ハトラー
フォト

 第3章 選挙王政が始まり、四半世紀に及ぶリヴォニア戦争が終結する

リヴォニア戦争により、リトアニア大公国の未来が変わる。イヴァン4世との戦いで国力を消費したことにより、ポーランド王国に援軍を求めた。1569年にルブリンで会議を開いた結果、同君連合をとる形となった。ルブリン合同により、ポーランド・リトアニア共和国が誕生した。3年後の1572年に、ワルシャワ連盟協約により、国王自由選挙制度が始まった。国内で信仰の自由を認めて平和に保つこと、また王の跡継ぎが決まらない場合の空位期間は新王未定とする。その際主権をカトリック教会の首座大司教に引渡し、インテレクス(ラテン語で空位期の君主を指す)とすることである。最も画期的なのは、シュラフタ(中小貴族)が投票権を持ち、マグナート(大貴族)が立候補権を持つ選挙制度だった。代議員に選出された96人のシュラフタは、所属する県で投票を行う。各候補の投票数をセナト(共和国元老院)に報告する。最終的に獲得票が最も多い候補者が、召集議会によって、正式に王として承認される。当時シュラフタは、全男性人口の10%に相当した。土地を持つシュラフタの主張が通りやすい仕組みとなり、王の権限は著しく弱くなった。当時富を蓄えたユダヤ人もカトリックの改宗により、シュラフタの特権を与えられ、選挙に参加していた。立候補権を持つマグナートは、共和国内で30から40の名門家系に限られていた。

写真左=ポーランド王国とリトアニア大公国が統一した歴史的な町ルブリン 掲載元ポーランドガイドより https://poland-abc.xyz/lublin
 フォト


 王の有力候補として、リヴォニア戦争において、対抗勢力のモスクワ大公国のイヴァン4世の名が挙がっていた。イヴァン4世は、ポーランドの中級・下級貴族に支援したことにより、王候補として有力視されていたのである。実際ポーランド・リトアニア側から2度に渡って、使節団が派遣されていた。イヴァン4世は、モスクワ大公国の地位を諸国並みに下げるつもりもなく、ポーランドに王冠は必要ないとの立場を主張する。実際ポーランドにおいて、絶対君主を否定し、議会を通さず、課税は認められなかった。強い国づくりを目指すイヴァン4世との方針に合わず、王の候補から外された。イヴァン4世は、1570年にポーランド・リトアニア共和国側に立っての参戦を計画していたノブゴロド公国の住民を大量虐殺した経緯がある。4年前の1566年には、大公国内においてオプリーチニナ(私的な領地)と公的な領地に分類した。オプリーチニナでは、最高権力者として、反対意見を唱える貴族を弾圧する。1571年に、ノブゴロドにおいて、秘密警察マリュータ・スクラートフが数千人を無差別に殺害したことにより、市民の反感を恐れ、オプリーチニナを解散した。

 写真=イングリアとリヴォニアの位置を示した図 掲載元 世界の歴史マップより https://sekainorekisi.com/glossary/%E5%8C%97%E6%96%B9%E6%88%A6%E4%BA%89/
 フォト

  写真右=ゴットハルト・ケトラー ウィキペディアより

結果的に、選挙によるポーランド・リトアニア共和国の初代王としてフランスのヴァロワ朝からアンリが戴冠した。彼は前年1572年のカトリックとプロテスタントが対立したユグノー戦争中に起こったサンバルテルミの大虐殺の当事者として知られる。根っからのカトリック信者のアンリは、宗教観でポーランドの貴族と一致していた。彼は1574年にクラクフにて戴冠式に望んだものの、王として制約の多さに耐え切れず、わずか4ヵ月後兄シャルル9世の訃報を機に、夜半ポーランドから脱出し、フランスに戻った。王様といえども、議会には逆らえないのである。王様に課せられた規約を「ヘンリク条項(アンリ3世の戴冠後の名前ヘンリック・ヴァレッジ)」という。王の権力を縛ることにより、貴族は自由な生活ができるものの、結果的に国力衰退に繋がった。フランス王国でアンリ三世として戴冠した。

写真 ポーランド議会セイム ウィキペディアより  
フォト

 必 ユグノー戦争は、1562年から1598年までの36年に渡り、フランス国内のプロテスタントとカトリックの争いだった。西暦1572年8月24日にサンバルテルミの大虐殺事件が起こった。アンリ3世は1583年に暗殺され、ヴァロワ朝最後の主となった。後を継いだブルボン朝初代王アンリ4世は、1598年4月13日にナント勅令を出し、プロテスタント新徒とカトリック新徒を差別せず、同等の権利を与えた。近世ヨーロッパで始めて信仰の自由が容認された。

 ポーランドとリトアニアが合同した共和国の議会はセイムという。1年半の空位期を経て、セイムは教皇代理の意見を踏まえたうえで、神聖ローマ帝国の皇帝マクシミリアン2世を推薦した。選挙権を持つシュラフタが、ピャスト王(ポーランド王)を選出するべく、共和国元老院に脅しをかける。ヤケヴォ朝最後の王ジグムンド1世の娘アンナが女王の座に付き、バートリー・イシュトヴァーンを婿として迎え、共同統治する。アンナの婿は、ハンガリー出身で、トランシルヴァニア公(在位1571年から1586年)を兼ね、ステパン・バートリー(在位1576年から86年)と改名した。なおリトアニア代議員は、セイムを欠席したことにより、国王選出に関わっていない。

写真=ステファン・バートリー王 ウィキペディアより
フォト

共和国内で王が短期間で入れ替わる中、対モスクワ大公国とのリヴォニア戦争において、大きく優位に立った。バートリー王とマグナートのヤン・ザモイスキが、指揮をとる。1582年1月15日にモスクワ大公国とヤム・サポルスキの和約を結び、リヴォニアから撤退させた。ポーランド・リトアニア王国の勝利の決め手は、プスコフ(現ロシア連邦の都市)の包囲戦だった。降伏したイヴァン4世は、占領していたポラツク(現ベラルーシのヴィテプスク州)を共和国側に返還した。四半世紀に及ぶ戦争は、ポーランド・リトアニア共和国と休戦協定を結んだ翌1583年、モスクワとスウェーデンの間でプリューサ条約が締結され、終わりを迎える。モスクワ大公国は、傀儡国家リヴォニア王国の建国を諦め、スウェーデンにエストニア公国とイングリア(ネヴァ川流域のフィンランド湾)、リヴォニア北部の領有を認めたのである。不凍港を獲得するべく、バルト海に進出したモスクワ大公国は衰退した。イヴァン4世の死により、キエフ大公国の楚リューリック家の血が途絶える結果になった。なおリヴォニア騎士団長のゴットハルト・ケトラーは、ビリニュス協定を守り、ポーランドド王冠の風土の形で、クールラント・ゼムガレン公国を創設し、自らその最初の統治者となった。終戦4年後の1587年に公国の首都ミタウ(イェルガヴァ)で死去した。彼の子孫は1737年までクールラントを支配した。1795年にポーランド第3次分割により、ロシア帝国のクールランド県として編入した。現在はラトビア共和国西部に位置する。

最終第4章 ウクライナの豊かな穀倉地帯の秘密

 ウクライナは、リヴォニア戦争終結後、ポーランド・リトアニアによって統制される。貴族は力を持つ一方、農民は生活が苦しくなった。土地を離れることを許されず、地主には服従を強いられた。生活苦から税を免れようと裁判に訴えても、取り合ってくれない。いわゆる「農奴化」したのである。ポーランド・リトアニア共和国の議会(セイム)は、ウクライナ国内において貿易にも制限をかけた。商人は、物を売り買いする際、貴族を介さなければならないのである。貴族は仲介料で稼ぎをえていた。
ウクライナを領有したことにより、ポーランド・リトアニア共和国内の貴族を中心に富を蓄える。国際情勢も味方した。人口増加が著しい西欧に、穀物を輸出するべく、ウクライナの穀倉地帯にて低コストで大量生産を行ったのである。しわ寄せは全て農奴にいく。西ウクライナで生産された穀物は、ヴィスワ河口からグダンスクを経由し、西欧の各国々へと届けられた。1491年から92年の輸出量は1万3000トン、対して1618年には27万2000トンまで膨れ上がったのである。

写真=ウクライナの土 掲載元ロシアとウクライナ住むならどちらがいいですか https://jp.quora.com/
フォト

ウクライナは、穀倉地帯として、ポーランド・リトアニア共和国、後に強大化するロシア帝国に狙われた。1721年に、モスクワ大公国は、祖先のルーシのラテン語名から、ロシアに改めていた。ロシア帝国崩壊後、ソヴィエト連邦誕生時にも、真っ先に併合される。第2次世界大戦時には、ナチス・ドイツにも占領された。なぜ穀倉地帯となるのか、気候と土地にある。国土の91%が平坦で、東側地域のバルダイ丘陵に端を発する全長2200kmのドニエプル川が国土の南北に渡っ流れ、黒海へと注ぐ。ドニエプル川の中流から下流域は、流れが緩やかで、氾濫とは無縁である。川から水を引き入れることにより、大規模穀倉地帯と化した。作物の生育を支えるのは、チェルノーゼムと呼ばれる黒い土だ。別名土の皇帝ともいう。

 チェルノーゼムは、決まった気候や環境の下で生成される。ウクライナの降水量は、日本列島の半分以下、高い樹木が育たず、草原になる。草の葉や根は秋になると枯れて土に戻る。雪が覆い尽くす冬場、養分がゆっくりと土の中に染み込む。栄養豊かな黒い土の層の下にある黄色い土の層も役立っている。280万年前から1万3000年前まで、10万年から4万年間隔で繰り返し襲う氷河期に、岩石が削られることで出きる。氷河に飲み込まれた岩石が、砕かれて、粉状になったのである。黄色い土は、氷河が運んだ栄養分も吸収していた。はるか昔に南下した氷河と季節ごとに芽を出しては、枯れていく草の葉や根によって、土の皇帝が作られていたのである。

 写真=首都キエフを流れるドニエプル川に架かるメトロ橋からの眺め 掲載元 freepick https://jp.freepik.com/premium-photo/view-of-the-metro-bridge-over-the-dnieper-in-kyiv_10753580.htm
 フォト
 
豊かな土壌を維持するには、手入れも欠かせない。柔らかい黒い土は、風にさらすと、簡単に吹き飛ばされてしまう。対策として、畑の周りに木々を植え「シェルターベルト」を作り、穀倉地を守った。現在シェルターベルトの手入れが不十分と指摘されている。土が腐食すると、作物の味も変わる。1922年にソ連に併合された後、ウクライナの農地は国営化した。1991年にソ連解体に伴い、独立すると、国有農地は、個別農家に分配された。2001年には、農地の売買を認める法律が可決されたものの、外国企業からの買収を危惧して、施行は見送られた。
豊かな資源を持つことにより、大国に目を付けられ、民族運動が阻害される。独立して30年、国の農業は管理体制が危惧されながら、今なお健在である。

 
 参考文献
 ・物語 ウクライナの歴史 ヨーロッパ最後の大国 黒川祐次著 中公新書より ・リヴォニア戦争 ウィキペディアリトアニア大公ヨガイラとヴィタウタスによる内戦 ウィキペディア
 ・GLOBAL+ ナチスも目をつけた土の皇帝よりhttps://globe.asahi.com/article/12344370
・世界の歴史業書 リトアニアの歴史 訳者 梶さやか、重松尚

https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=6656316
3 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年09月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930