mixiユーザー(id:825360)

2021年05月20日20:05

36 view

[反抗としての暴走族]「特攻服のルーツは三島由紀夫をの楯の会という説がある」と書いたけど[東京タワー―オカンとボクと、時々、オトン ]


前回、「特攻服のルーツは三島由紀夫をの楯の会という説がある」ということを書いて、そのソースは何か、ということになったので慌てて、以前に読んだ本を調べてみた。
そしてその根拠となる文章がこれ。


そもそも暴走族、やくざの世界は強い男性優位の原則の下に成立しており、女性はあくまで男を立てるのが流儀なのだ。そして、彼女たちのユニフォームである。特攻服は、街宣車の右翼団体を真似たものだ(ちなみに、太平洋戦争の特攻隊とは無関係。三島由紀夫の楯の会の方が原型だとの説もある)。
P102


引用した本は「ケータイ小説的。“再ヤンキー化”時代の少女たち(速水健朗)」というもので、この文章の主張のソースは実はよくわかない。ということで「説もある」と書いたし、引用した本もそう書いてある。この人はやたら一時期全ての社会的な出来事は「ケータイ」のせいだと言ってたこともあって、その文章はちょっと怪しい。

例えば

前者(引用者註・学生運動)の暴走に参加したのは大学進学率が15%という時代に入ったエリートたちであり、共産主義革命によって社会を改善しようという理想の追求から生じた暴走だった。一方、後者(引用者注・暴走族)の多くは学校になじめない成績不良者の集まりで、スピードのスリルや爆音で善良な市民の生活に迷惑をかける単なる反社会的な暴走と見られている。まったく、正反対のように見える両者だが、社会に反抗する若者という観点においては、そこには何ら間違いはないとも言える。実際、雨宮処凛の師匠として知られる作家の見沢知廉lが暴走族から学生運動へと活動の場所を移したということが象徴するように、自己承認を満たすための行動という見方の上で、暴走族と学生運動は等価なのだ。
 ここで筆者は、単に学生運動も似たようなものだと言いたいわけではない。若者が自己(もしくは複数の「自分たち」)の存在を示すために社会に反抗するというのは、決してヤンキー特有のものではなかった。むしろ、あの時代の若者に共通するものであったということを指摘したいのだ。つまり、反抗とはヤンキーにとっての必要条件のように思われがちだが、あくまで暴走族が登場した時代は、若者が社会に反旗を翻すことが流行していただけなのだ。ヤンキーとは必ずしも犯行と結びつくものではない。」


というところの文章はなかなかイキオイがあるが、何を根拠にそう主張するのか、というと論拠不足である。ここだけが論拠がないというわけではないのだが、この中に出てきた「見沢知廉l」という人物が死んだのが「戸塚」ということもあり、この部分を引用した。
他にも「ヤンキー」や「暴走族」の漫画の例として「頭文字D」を引用するよりは「湾岸ミッドナイト」の方がより「ヤンキー」や「暴走族」のような話ではないか、とついツッコんでしまう。
しかし、この本が全てに置いて正しくないかといえば、そうではなく、正しいことも書いてある
例えば


[赤木(引用者註・かん子)によるとリリー・フランキーの「東京タワー」ですら、「リアル系」(※引用者註。「五体不満足」「窓際のトットちゃん」のようなフィクションでもノンフィクションやドキュメンタリーになぜか分類される本の事を「リアル系」と称している)の読者である少女たちには「本当にあったこと」として受け取られているのだという。』
P81「ケータイ小説的。“再ヤンキー化”時代の少女たち」速水健朗


これは読んでいて笑ってしまった。当たり前であるが本当の話でない物語をわざわざ本人が書くわけがないわけであるし、はっきりいってこの「ケータイ小説的」の作者の方が文体に独特のクセがある。単純に言えば、文章に「行間を読む」要素がないような本はゴーストライターが書いてると言われても仕方のない本と言われても仕方がない。そもそも今の時代、テレビに本当の天才は出てくる事はないのである。


http://www.harashobo.co.jp/book/b368272.htm
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2021年05月>
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031