3時のヒロイン・福田麻貴、容姿ネタ封印の思い吐露 芸人と視聴者の価値観の“ねじれ”指摘
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「強者と弱者」
男性と女性(ジェンダーフリー)、健常者と障碍者(ミゼットプロレスやJR電動車いす運べ問題)、イケメン美人とブサイクブスな方(オリンピッグ渡辺直美氏問題)、あだ名いじめ問題、metoo運動などなど。
今までは「弱者」が黙して語らなかった。あるいは語れなかった。語りたくなかった。語るべき手段や場所がなかった。・・・逆か?それらができないから「弱者」だったのかも。
ところが昨今はネットの発展により今まで反抗の声を上げることすらできなかった弱者が声をあげられるようになったのは喜ばしいことだと思う。
ただ「行き過ぎ」を感じている。
容姿イジリというとミゼットプロレスを思い出す。「小人症の人を見世物にするな!」ということでミゼットプロレスが廃れて、小人症の方々が失業してしまうという皮肉な悲劇を繰り返してはなるまい。
ダイバーシティで多様性を認めるというのは「事実に触れない」「話題にしない」「問題を秘匿する」ことではあるまい。
テレビでボクシングややくざ映画、芸人の容姿いじり、そして一度も見たことがないがでそれらを真に受けた視聴者の中でごく一部ではあるが「主張する弱者」がなんでもかんでも「差別だ」「私は傷つく」と発言することで発信者が萎縮するのはよろしくないということだ。
かつては「そんなの真に受けるバカ(これも差別発言か?)はいないだろう」と笑い飛ばせていたのだが、リアリティショーとやらのネットの誹謗中傷があり、木村花さんが自殺された件もあり笑い飛ばすことなどできない由々しき問題にとなってしまっている。
そもそも「傷つきやすい弱者」であれば、そこまで強硬な主張しないと思うんだが。というかそれだけ主張できている時点で少なくとも「単なる弱者」ではないと思う。
わかりやすく極論化すると「数十億の地球人口で最も傷つきやすい1人に数十億の発信者全員が配慮した発信ができている」というのは理想ではあるが現実的ではない。数十億の発信者全員が配慮するよりも、傷つきやすい1人に「傷つかない考え方」を伝授するほうが現実的で効率的だということだ。
社会資源には限界があるという現実もある(JR電気車いす運搬問題などはその典型で。すべての駅に即座に運搬機をつけろ!というのは理想ではあるが現実的ではない。
シャア「ならば、今すぐ愚民どもすべて英知を授けて見せろ!」
というのは理想ではあるが現実的ではなく急ぎ過ぎではないか。
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