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2021年04月10日22:20

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デグチャノエ(台本化)

3.デグチャノエ村、リャザン州スパッスキー地区

むかしはこの丘は トナカイの丘
雪わり苔もゆ 土地でした

だれがいつ思いついた シベリアの林わたって
走る列車を 跳ねる客車を 歌う線路を ゆれる背嚢を
ゆでたじゃがいも頬ばる 子ども見まもるお婆ちゃん
列車は走る 客車跳ねる 歌うはシベリア鉄道

アエロフロートのヘリで 降りたつ初めの移住者は
リボンのかたちの川で 水浴びし
いっせんきゅうひゃくはちじゅうろく 真冬の大地にランディング
ふた月ばかりはトレーラー お風呂も授業も
眠って はたらき 笑ったね

三年もたったら町は 千人も住んでてびっくり
走る列車も 跳ねる客車も 歌う線路も 花にあふれ
モルドヴァ ウクライナ タタール 出会いも恋もびっくり
列車は走る 客車はねる バムの大地はビロード

コムソモリスクの基地で 抜かれたたくさんのシャンパンで
リボンのかたちの川を あぶくくだる
エヴェンキ ナナイはいない 移民ばかりのこの町
鉄道かたぎのざっくばらん かまど積みあげ
踊って はたらき 眠ったね



ズドゥラーストヴィーチェ。アムールのガイテル1という村から来ました、ユリヤ・モジャルツェーヴァといいます。高校生の時から村史のフィールドワークをやっておりまして、同じアムールのトゥンガラという村で採集したのが今の歌です。あちこちの地方史家さんたちの文章を読んでいるうち、ここリャザンに興味を持ってたどり着きました。

人々は長きにわたって、人生の善き出来事を覚えております。それらの記憶は、様々な説話や歌謡などの形を取って、世代から世代へと受け継がれます。受け継がれた民話を聞くことには、もちろん資料としての価値もありますが、何よりもまず子どもや若い世代にとって楽しい、かけがえのない時間でもあろうと思います。

あるふみにいわく。デグチャノエ、すなわち「木タール」の村の文献初出は一六七六年ですが、民間説話によると十三世紀にはすでに成立していたとも言われています。
村の名前は、古くからこの村の生業だった乾留が元になっています。ロマノフ王朝初代皇帝ミハイル・フェドローヴィチの治世といいますから十七世紀の初め、勅令によって土地台帳が作られ、村は国の保有となり、皇帝の財務に都合のいい税制が課せられました。村人は余計に働かねばならなくなり、そのころまだ豊富だった森林をうまく使って、木材の乾留業を始めました。村からほど近い森の中に工場を建て、炭と木酢、そして木タールの生産を始めたのです。のちに木材が乏しくなると次第に生産は下火になりましたが、村の名前はそのまま残りました。(1875)

あるふみにいわく。デフチャノエの村はスパッスクから十五ベルスタのところに位置します。名前のない湖のぐるりを取りまき、村の名はむかし湖畔にあった木タール工場からつきました。
デフチャノエ木タール会社の基礎を作ったのはラスヴァニの人々です。(1860)

あるふみにいわく。一五七六年、フョードル・イヴァーノヴィッチ・フヴォロスティーニン王子の、荒廃したリャザン修道院修復にかんする請願書に次のように記されている。デグチャノエの村は同じ名の湖の周りにあり、歴史家たちは木タール製造に関連しての名だとの説を採っているが、実はこれには直接の証拠がない。実際にはまず湖が木タールとの関係で命名され、ついでその湖の名が村の名にもなったのであって、逆ではない、と。(1887)

あるふみにいわく。木タールは白樺の樹皮を熱する時に出る焦げた液体状の樹脂です。デグチャルニヤは、彼らが木タールを作る施設。デグチャルカは、薬剤の樽のことです。(1989)

あるふみにいわく。むかしはの。デグチャノエの村は今より少し南西の方、今のでんぷん工場のあたり、オカ川のほとりにあって、交易でよく栄えておった。そのころはメッシェラ松の林と明るいたくさんの湖水がどこまでもどこまでも広がっておった。みなもとはどこだったかウシュナ川のあたりにあったはずだ。それこそ森と同じくらいの広さで沼があったよ。大きな湖もあったもんだが、いつのころからか段々干上がって、今では二、三の池だけになってしまった。(1994)

あるふみにいわく。むかしむかし。今のデグチャノエがあるあたりは、誰も入ったことのない深い森に覆われていた。森の奥にはふたつの隠された湖があり、西のオカ川とは広い水路で繋がっていたので、魚はたっぷりいた。水路を越えると緑のビロードの牧草地があって、それはそれは素敵だった。牧場のうしろにはそびえ立つ丘の上に、金色の丸屋根の教会を擁するいくつもの村や町。森は獣たちで富み、草はらにはたくさんの鳥がいたので、人々は好きなだけ獲ることができた。日が昇れば牧草地は家畜どもで溢れ、羊飼いたちの陽気な角笛が鳴り渡るのだった。暮らしは単純で穏やかなものだった。誰も心労も、貧しさも、悲しみも知らずに、満ち足りて暮らしていた。みんなは釣りをし、獣を射ては、ムーロムとリャザン公国の首都に送った。獲物はたちまち売りさばかれ、村に富と喜びをもたらした。ムーロムとリャザンの貴公子たちは毛皮を求めて、よく馬を駆ってはここを訪れた。人々は王子や騎士たちとの交流をよろこび、みずからも狩りに加わった。若者たちは馬で獣を追い、娘たちは着飾って円舞を踊った。すっかり狩りが済み王子たちが騎士たちをともなって帰って行くと、村はまた静かで平和な暮らしに戻るのだった。日曜ともなれば鐘の音が老人から幼な子まですべての人を神の教会に呼び招いた。人々は王子たちと騎士たち、すべての友人と親戚たち、そして聖なるロシアの正教徒たちのために祈った。礼拝が終わると誰もが我が一族のおさの家に急いだ。いつでもいくつもの家族が集まってきた。みごとな銀髪のおさがゆったりと卓につくと、みなが周りに座り、彼の智恵に満ちた賢明な語りに耳を傾けた。村々は豊かだったので、もてなしの心に満ちていた。もてなしこそは、かの時代のいちばん大事な心構えで、来客をむげに扱うことは大きな罪だと考えられていた。そんなことは許されない、なぜならたまたま自分が何も持ち合わせなかったら隣人に頼るしかないのだし、そんな時隣人はありったけの持ち合わせでもてなすに決まっているからだ。そのころは誰もが自分の腕で自分に満足のいくだけ働いていたので、不足などという考えはなかった。暮らしは単純で仕事は楽だったから、人々はいつだって楽しく暮らすだけの度量をそなえていた。晴れた日の夕暮れには丘の木陰にみんなで集まり、老人たちは途方もない昔の、経験と智恵をたんまり仕込んだ話をした。大人たちは長老たちの智恵に学び、若者たちは愛しあい、子どもたちは遊びころげた。老人たちにとってもこんな様子は間違いなく楽しみだったし、自分が若返るようにも感じたものだ。
のちにデグチャノエの村ができるこの土地で、みんなは楽しく穏やかに暮らしていた。ところが。その幸せはずっとは続かなかった。そののちある時、火事が、ムーロム・リャザン公国ぜんたいを襲った。ただの火事ではない。それはモンゴルという災厄だった。幸福で平和な生活は途絶えた。恐ろしいことはいちどきにやって来た。神の聖堂は破壊され、家は焼かれた。夫は妻を殺され、子は母親を殺された。
恐怖と悲鳴の時代だった。人々はすべて孤児同然になった。貴公子たちは討ち死にし、兵隊たちは連れ去られ、すべての地所は略奪された。若者の陽気な歌も、羊飼いたちの角笛も、やんだ。牧草地にもはや牛はおらず、子どもたちの笑い声も聞こえない。失われた。すべては失われて沈黙した。
恐怖に追いたてられた人々は、ついに誰も踏み込んだことのない森に逃げ込んだ。森の奥では切り立った岸のふたつの湖水が彼らを迎えた。当座のところはここに落ち着こう。ほっとはしたものの、まるで住み良いところではなかった。怖れにおののきながら長いことそこに住むうちに、彼らの心は絶望のあまり、次第に野獣のように荒れ果てていった。たまたま寄り集まった人々はくにや町もばらばら、身分や称号もまちまちで、そのうえ誰もが飢えと悲しみにとらわれていたため、長く一緒に暮らすことなどできなかった。彼らはお互いに嫉みあうようになり、強い者が威張りかえり、老人は敬われなくなり、誰もが自分の都合しか考えなくなっていった。不幸と貧困はずるさとお互いの不信を生んだ。皆が敵意に満たされ、人生は堪えがたいほど辛いものに変わり果ててしまった。
ひとしきり荒れ狂ったモンゴルはやがて去ったが、皆の心はえぐられたままだった。人々は無礼で残酷になり、とうとう家庭がめちゃくちゃになった。夫は妻を殴り、妻は夫に怯えた。かつてあった結婚の、お互いの尊敬と愛とは、今や恐怖と残忍さに取って代わられた。夫は専制君主であり、妻は束縛と沈黙の中で嘆き悲しむばかりだった。幼いころからあらゆる残虐行為と不公正に慣れ親しんで育つ子どもたちは、大きくなるとすっかりそのままの大人になった。人々は次第に増えたけれども、一緒に不幸もどんどん増えた。湖水は干上がり、今や人々はその底の泥をすすって不潔に生きていた。悪い冗談のように神の教会も建てられることは建てられた。しかしもはや鐘は人々を呼び集めず、聖職者がいないため会堂はいつもがらんとして誰も訪なわなかった。安息日を祝い、食事をともにするためにおさの家に行く人はもういない。なぜならもはや、おさたちがいなかったから。休日や親戚を称え、木陰で智恵を授けてくれる人は失われた。朝から晩までほとんどすべての人がカインのように森をさまよっては、殺せるかぎりの人を殺し尽くしたのだ。誰もが怯え、誰もが自分にのしかかる重しを感じていたが、誰ひとりそれを取りのぞけなかった。ただ誰もが昏い予感に満ちるばかりで、悔い改めて神のみもとに立ち返ろうなどとは思いもよらなかった。
そう。確かに彼らの昏い予感は当たっていた。彼らの頭上には神の怒りの雲が集まり渦巻き、ひどい罰がくだろうとしていたのだ。神はそれでもまだ辛抱強く待っていた。だがとうとう怒りの器は溢れ、罪人たちを罰した。沼にはみるみる泥水が湧き出し、村はたちまちのうちに呑み込まれ、また大きな池となった。だがそれはかつての美しい湖水ではなく、鬱蒼とした草むらに隠された泥の湖だった。
とはいえ、神様は公正で慈悲深い方だ。いくたりかの村人は生き残り、ここで起こったすべてのことを後の世に語り継いだ。村のあとにできた湖はラスヴァニユと呼ばれた。荒れ狂うモンゴルに追われて吹き寄せられた様々な階級と出自、様々な町や村の人々がいちどきに滅んだその場所は、ラスヴァニユと呼ばれた。彼らは確かにそこに住んでいた。
今でも復活祭になると毎年、沈んだ教会の十字架が池のおもてに浮かびあがり、はるか池の底からは鐘の音が聞こえると、村人たちは語る。(1875)

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