日記を書くのがえらく久しぶりになってしまいました。
もう3月になってしまいましたが、新年おめでとうございます。ハワイもどことなく春の気配。だんだん日の入りが遅くなってきました。
あれこれ書いてみたいこともありましたが、文にする余裕のないままに時間がすぎ、そうこうしているうちに、何を書こうとしていたのかも忘れてしまったのですが。。。
一つだけ、心に残っている奇想天外な経験があります。
一ヶ月くらい前だったかな。。。あ。実はこれ、自分自身のシモの話なので、書こうかどうしようか迷ったんですけど、ちょっと強烈な体験だったので、やっぱり書き留めることにしました。
ある朝、トイレで用を足している時のことでした。(大の方ね。)
便座に座って平和に瞑目していると、どこからか、
「いかがでしたでしょうか?」
という声がしたんです。
「え?」
っと思ってキョトンとしていると、今度は、
「私たちは、お役に立てましたでしょうか?」
と言っている声が、私のお腹の中からしてきたんです。(聞こえる、というと語弊があるかも知れません。この声は私の頭の中に聞こえるんです。)
その時、瞬時に、これは私の体を出て行こうとしているウンチが私に語りかけてるんだ、とわかりました。びっくりして思わず、「はい、非常に役立ちました!ありがとうございます!」と言ってしまいました(笑)
そうなのかー。ウンチも私を思ってくれてるんだな、と、これまでに感じたことのなかった感謝の念が湧いてきました。
その声は、「私たち」とはっきり複数形で言って言ってました。ということは、これは、私がここ1−2日の間に口にした、いろんな食べ物の個々の精霊というか、エネルギーというか、魂が、ウンチの形状になって、みんな一緒になって出て行くので、「私たち」なのでしょう。人参の精、きゅうりの精、米の精、昆布の精、考えても見れば、本当に数知れない動植物の精を私は取り込んで、それで生きているんですね。
これまで、私は、自分が食べているものが、体の中に入っても意識があるなど、考えたこともありませんでした。ましてや、自分が出したウンチに意識があるなんて、これっぽっちも考えたことはありませんでした! 私にとって、大便とは、「消化された後のカス」「不浄のもの」でしかなかったんです。
だけど、このように(しかもかなり丁寧な言葉で)具体的に話しかけられてみると、なんだかこれまで自分がとってきた態度が理不尽で、申し訳ないような気分になり、用足しが終わっていざ流す時にも、しっかりと見て、「ありがとうございました」と多少厳粛な’気持ちでお見送りしました(爆)
そういえば、最近読んだ『地球人のための超植物入門ーー森の精が語る知られざる生命エネルギーの世界』という本によると、植物というのは、切り取られてしまっても、その生命エネルギーは残っているのだそうです。著者によると、切られたモトの方の植物の魂が、ちょん切られた先の方のことをまだ自分だと思っている間は、生きていられるらしい。。。こんな言い方は、受け入れられない人もいるのでしょうが、科学者である著者が経験からそう言っているのですから、将来的にはこれがマトモな考え方として主流になって行くのではないかと思います。
ひょっとしたら、今自分がこの部屋の中で見ている、一見生命のないもの、机やタンスや鏡や壁にも、意識はあるのかも知れない。もしそうだとすると、私たちは、まさに耳が聞こえない状態で、その声を知らずにずっと人生を生きているんですよね。
それが、もし聞こえるようになったら。。。これまでの人生観、世界観がガラっと変わってしまうでしょうねぇ。そして、人間はもう少し優しくなれるんじゃないか。そして、すべてのものと共存することを覚えて、もっと楽に生きられるのかも知れない。
ウンチに話しかけられたことから、ふとそんなことを思ったりもしたのでした。
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