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2021年01月24日23:56

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1月19日が忌日である人々

890年(寛平2年)、平安時代前期の僧・歌人の遍昭(へんじょう)が数え75歳で亡くなりました。俗名は良岑宗貞(よしみね の むねさだ)。六歌仙および三十六歌仙の一人。大納言・良岑安世の八男。官位は従五位上・左近衛少将。遍昭は『古今和歌集』仮名序において、紀貫之が「近き世にその名きこえたる人」として名を挙げた六歌仙の一人です。貫之による遍昭の評は以下の通り。「僧正遍昭は、歌のさまは得たれどもまことすくなし」。桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として恰好の性格を備えた人物です。江戸時代に製作された歌舞伎舞踊『積恋雪関扉(つもるこい せきのとびら)』では良岑宗貞の名で登場。
1232年(寛喜4年)、鎌倉時代前期の華厳宗の僧、明惠(みょうえ)上人が数え60歳で亡くなりました。俗縁を絶って遁世僧となった明恵は、建永元年(1206年)、後鳥羽上皇から栂尾の地を下賜されて高山寺を開山し、華厳教学の研究などの学問や坐禅修行などの観行にはげみ、戒律を重んじて顕密諸宗の復興に尽力しました。明恵は華厳の教えと密教との統一・融合をはかり、この教えはのちに華厳密教と称されました。ために華厳宗中興の祖とされます。明恵は和歌にも長けており、家集『明恵上人和歌集』があります。次の短歌が知られます。「むらさきの 雲のうえへにぞ みをやどす 風にみだるる 藤をしたてて」。「月の歌人」とも称されます。また、栄西請来の茶の種子を栂尾にまき、茶の普及の契機をなしたことは有名。おもな著書には、浄土宗をひらいた法然の『選択本願念仏集』(選択集)を読んでこれを批判した上述の『摧邪輪』(ざいじゃりん、正しくは『於一向専修宗選択集中摧邪輪』)全3巻、『同荘厳記』1巻があります。
1728年(享保13年)、儒学者の荻生徂徠(おぎゅう そらい)が数え63歳で亡くなりました。父は5代将軍・徳川綱吉の侍医・荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・柳沢保明(やなぎさわ やすあきら)に抜擢され、吉保の領地の川越で15人扶持を支給されて彼に仕えました。のち500石取りに加増されて柳沢邸で講学、ならびに政治上の諮問に応えました。将軍・綱吉の知己も得ています。吉保は宝永元年(1705年)に甲府藩主となり、宝永7年(1706年)に徂徠は吉保の命により甲斐国を見聞し、紀行文『風流使者記』『峡中紀行』として記しています。宝永6年(1709年)、綱吉の死去と吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開きました。やがて徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至ります。なお、塾名の「蘐園」とは塾の所在地・茅場町にちなみます(隣接して宝井其角が住み、「梅が香や隣は荻生惣右衛門」 の句があります)。朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と喝破、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派)を確立しました。支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えました。徂徠の塾では中国語が原語で飛び交っていたのです。また、古文辞学によって解明した知識をもとに、中国古代の聖人が制作した先王の道(礼楽刑政)に従った制度を立て、政治を行うことが重要だとしました。徂徠は農本思想を説き、武士や町人が帰農することで市場経済化に適応できず困窮(旅宿の徒)していた武士を救えると考えました。赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣・浅見絅斎などが賛美助命論を展開したのに対し、徂徠は義士切腹論を主張しました。落語や講談・浪曲の演目で知られる「徂徠豆腐」は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話。詳細は寄席で聴いてください。
1865年、フランスの社会哲学者、社会改革者、ピエール・ジョゼフ・プルードンが心臓病のため、56歳で亡くなりました。「無政府主義の父」と称されます。1839年『日曜礼拝論』を発表しますが、その内容が財産平等の理想に基づく社会改革思想であるとして聖職者会議に忌避され、発禁処分を受けました。1840年6月『財産とは何か』が出版されましたが、「財産、それは盗奪である」などの過激な表現によりブザンソン・アカデミーが出版の認可を取り消したものの、プルードンは撤回を拒否。1841年4月に財産に関する第二論文『ブランキ氏への手紙』、1842年1月に第三論文『有産者への警告』が刊行されました。第三論文『有産者への警告』がブザンソンの司法官憲に押収され、起訴されます。1843年3月に印刷所の仕事を辞め、1847年10月までリヨンのゴーチエ兄弟商会の事務員・法律顧問となります。実務に妨げられながら経済学者と交遊を重ね、1843年『人類社会における秩序の創造』、1846年『経済的矛盾の体系、または貧困の哲学』を出版。このころ、ロシアのバクーニンとも知り合い、ヘーゲル弁証法について徹夜で議論しています。同時期に1844年から数回会っているマルクスから共産主義通信委員会の通信員となるよう依頼を受けていますが、同意しつつも教条主義や権威主義的な傾向を危惧して多くを留保しています。マルクスは「彼の著作はフランス・プロレタリアートの科学的宣言」とまで称賛していましたが、この頃から軋轢が生じたとされます。1848年の二月革命のさい、テュイルリー宮殿の無血占領に参加し、2月7日からロシアの社会主義者アレクサンドル・ゲルツェンの協力も得て『人民の代表』『人民』『人民の声』などの新聞を発刊し、人民銀行と相互主義的交換組織を試み、6月の補欠選挙で国民議会議員に選出されました。1849年に大統領ルイ・ナポレオンを反動の権化として自分の新聞で攻撃したため、3年の禁固刑と1万フランの罰金刑を宣告されました。獄中生活の中で裁縫師ユフラジ・ピエガールと結婚して子供をもうけ、『一革命家の告白』(1850年)、『十九世紀における革命の一般理念』(1851年)などの代表作を執筆。出獄後の1858年に出版した『革命の正義と教会の正義』は6000部売れますが、公共道徳・宗教・国家を攻撃したとして官憲に押収され、再び禁固3年と3千フランの罰金刑を宣告され、家族とともにベルギーのブリュッセルに亡命しました。1862年にフランス政府の特赦を利用して帰国し、1863年『連邦主義的原理と革命党再建の必要について』を執筆。遺著『労働者階級の政治的能力』を口述して完成して死を迎えます。
1899年、幕臣、政治家の勝海舟が、風呂上がりにトイレに寄った後に倒れ、侍女に生姜湯を持ってくるように頼みましたが、間に合わないとして持ってこられたブランデーを飲んですぐに脳溢血により意識不明となり、息を引き取りました。海舟の最期の言葉は「コレデオシマイ」でした。享年77。幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん−ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホゥ」とも読めると言っています。海舟は号で、佐久間象山直筆の書「海舟書屋」からとったものです。海舟という号は本来誰のものであったかは分からないということです。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は勝元良(甚三郎)の娘信。幕末の剣客・男谷信友(精一郎)は血縁上は又従兄で、信友が海舟の伯父に当たる男谷思孝(彦四郎)の婿養子に入ったことから系図上は従兄に当たります。小吉と海舟はともに睾丸を負傷したという、奇妙な共通点がありました。10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となります。16歳で家督を継ぎ、弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学んで赤坂田町に私塾「氷解塾」を開きます。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後に軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は参議、海軍卿、枢密顧問官を歴任し、伯爵に叙せられました。李鴻章を始めとする清の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福沢諭吉(福澤諭吉)らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞しました。回想録として、吉本襄による『氷川清話』や巌本善治による『海舟座談』があります。
1948年、初代大本教教主の出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)が1946年(昭和21年)8月に脳出血で倒れました。以後健康を取り戻すことなく、1948年(昭和23年)1月19日午前7時55分に逝去しました。満76歳没。新宗教「大本」の二大教祖の一人。肩書きは「教主輔」、尊称は「聖師」。もう一人の教祖(肩書きは「開祖」)は、出口なお(直)。前名は上田喜三郎(うえだ きさぶろう)。出口王仁三郎は、強烈な個性と魅力とカリスマを持っていたとされ、メディアを含め様々な手法を駆使して昭和前期の大本を日本有数の宗教団体に発展させました。その一方で実像をとらえることが難しく、奔放な言動により敵対者から多くの非難を浴びます。その評価は現在でも定まっていません。いわゆる「国家神道」と相容れない教義を展開した大本は危険勢力として政府の弾圧を受け、自身も7年近く拘束されました。太平洋戦争終結後は教団の再建に尽力するも、まもなく病により死去。彼の思想と布教方法は戦後の新宗教に大きな影響を与えました。1918年(大正7年)11月6日、開祖・出口なおが81歳で死去。末子の出口すみ(澄)が二代教主・夫の王仁三郎が教主輔(「補」ではなく特別に「輔」を用いる)となりました。1919年(大正8年)、大本は京都府の亀山城址を買収して綾部と並ぶ教団の本拠地「天恩郷」に改修。翌年8月に大正日日新聞を買収して言論活動に進出するなど活発な布教活動により教勢を伸ばしました。日本政府は「国家神道」と食い違う神話解釈を行い、メディアを通じて信者数を拡大し、陸海軍や上流階級まで影響力を持つようになった大本に危機感を覚えました。さらに浅野たちが黙示録的な予言をメディアで全国に宣伝したため国内は騒然、当局の懸念はますます強くなりました。内務省が公式に警告を発し、王仁三郎も警察に呼び出されて注意を受けています。教典『大本神諭(火の巻)』は不敬と判断され発禁になりました。政府は元信者が大本を「皇室の尊厳を冒涜した」「王仁三郎は陰謀家だ」「日本神話に勝手な解釈を加えた」などと告発したのをきっかけに、1921年(大正10年)2月12日に不敬罪・新聞紙法違反として弾圧を加えました(第一次大本事件 )。80名が検挙されましたが、最終的に王仁三郎・浅野・吉田祐定(印刷出版責任者)が京都地裁に起訴されました。開廷(9月16日)から判決(10月5日)まで25日という裁判で、王仁三郎に新聞紙法違反と不敬罪で懲役5年、浅野10ヶ月、吉田3ヶ月という判決が下りました。不敬を理由に教団の施設破壊が行われましたが、決定的な打撃とはなりませんでした。1935年(昭和10年)にも日本政府は王仁三郎と母体である大本を治安維持法によって徹底排除することを意図しました。王仁三郎は松江市島根別院で拘束されました。夫妻以下幹部達は治安維持法違反と不敬罪で逮捕され、毎日新聞や朝日新聞などの大手マスコミも大本を「邪教」と断定。裁判前にも関わらず、政府は亀山城址にあった神殿をダイナマイトで爆破し、綾部や地方の施設も全て破壊、財産も安価で処分しました。人類愛善会など大本関連団体も解散や活動停止に追い込まれました。不敬罪については大審院まで持ち込まれましたが、1945年(昭和20年)10月17日、敗戦による大赦令で無効になりました。1947年(昭和22年)10月に刑法が改正され、不敬罪は消滅しました。保釈された王仁三郎が晩年に没頭した楽焼は後に「耀盌(ようわん)」と称され、現在もなおその美術的価値は国内外で高く評価されています。王仁三郎(大本)は分派が多いことでも知られます。第一次大本事件当時の大本筆頭幹部浅野和三郎は心霊科学研究会(現在日本スピリチュアリスト協会)を結成し、その思想は近藤千雄や江原啓之といった多くの心霊主義者に影響を与えました。他に谷口雅春と生長の家、友清歓真と神道天行居、岡田茂吉と世界救世教(真光系諸教団)などが代表例です。
1999年、元相撲取り、元プロレスラー、日本プロレス社長だった芳の里淳三が1998年3月11日に脳梗塞で倒れ、1999年1月19日、多臓器不全により死去。71歳でした。本名は、長谷川淳三(はせがわ じゅんぞう)。1954年9月10日に二所ノ関の先輩・力道山を大阪府立体育館に訪ね、日本プロレス入門を直訴して認められ、当日にデビュー戦を戦います(対渡辺貞三)。日本のプロレス界において、当然1番のスピードデビューです。当初はプロレスラーのトレーニングはもちろんの事、プロボクサーのトレーニングも受けていました。1954年12月22日、蔵前国技館で行われた昭和の巌流島決戦、力道山vs木村政彦の試合の前座ではプロレスであるにもかかわらず、対戦相手の市川登(全日本プロレス協会所属)に突如不意打ちのセメント(真剣勝負)をしかけ、数十発の張り手を見舞って昏倒させました。市川は脳に重い障害が残り1967年末に死去。この突然の暴挙は、当時絶対的に逆らえない存在であった力道山からの命であり、「市川を殺せ」と食事のたびに何度も繰り返し言われていたそうです。1956年10月23日、大阪府立体育館で行われた全日本ウェート別選手権に出場、吉原功(後の国際プロレス社長)を破り初代ライトヘビー級王者となりました。1961年、ジャイアント馬場、マンモス鈴木とともにアメリカ遠征へ出発。丈の短いタイツ、ひざ当て、下駄履きといういでたち(いわゆる田吾作スタイル)で反則攻撃を繰り返すヒールとして活躍。このスタイルは、アメリカマットにおける(テネシー地区では「デビル・サト」のリングネームで悪名を轟かせた)日本人ヒールの伝統となりました。力道山の死後、吉村道明、豊登、遠藤幸吉とともに日本プロレスの経営を担い、1966年1月には3代目の社長に就任、現役引退。日本プロレス崩壊後、全日本プロレスにおいて、1978年に行われた全日本・国際プロレス・韓国軍(大木金太郎派)による三軍対抗戦。この興行で行われたジャイアント馬場対ラッシャー木村戦において、芳の里はレフェリーを務めています。馬場が木村に足4の字固めを仕掛けると、木村は上半身をリング外に出す体勢でロープブレイク。しかし芳の里はなぜかブレイクを認めず、リングアウトカウントを数え始め、ついには木村はリングアウト負けを宣言されました。日本プロレス界における「疑惑のレフェリング」として有名。
2007年、アメリカのプロレスラーのクラッシャー・バンバン・ビガロことスコット・ビガローがフロリダの自宅で45歳で死去。死因は公表されていませんが、薬物の大量摂取による副作用と見られています(CNNなどより)。プロレスラー養成所のモンスター・ファクトリーを経て、1985年12月にクラッシャー・ユーコフ(Crusher Yurkof)のリングネームでデビュー。テネシー州メンフィスのCWAではジェリー・ローラーやオースチン・アイドル、テキサス州ダラスのWCCWではケビン・フォン・エリックやトニー・アトラス、さらにはブルーザー・ブロディとも対戦してキャリアを積みました。1987年1月、アントニオ猪木の新たなライバルとして新日本プロレスに初来日。当初はモンスター・ファクトリーの主宰者である元プロレスラーのラリー・シャープをマネージャーとして帯同していました。スキンヘッドにまで施された刺青や、炎をあしらった全身コスチュームをトレードマークに、巨体に似合わぬ軽快な身のこなしで側転をするパフォーマンスなどで「動けるデブ」としてファンに認知されました。新日本プロレス参戦中はクラッシャー・バンバン・ビガロのリングネームでビッグバン・ベイダーとタッグを組み、1992年3月にIWGPタッグ王座を獲得するなどして活躍。その後、日本では全日本プロレス、WAR、FMW、アメリカではWWF(現:WWE)、ECW、WCWなど各団体に参戦しました。2000年7月に、火事に巻き込まれた近所の子供を大火傷を負いながらも助けました。その後遺症もあり40代を過ぎてからセミリタイア状態となり、弁当屋経営などに携わっていましたが、2005年にバイク事故を起こし鼻骨骨折。同乗の女性が意識不明の重体になるアクシデントに見舞われました。 同乗していた恋人の女性がヘルメットを着用していなかったために、警察からは殺人罪に問われるも彼女は快方へと向かい警察からの嫌疑も晴れます。 だが、これを機にプロレスから完全引退しました。
2013年、48代横綱であった大鵬幸喜が心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院において死去。72歳没。相撲を毛嫌いしている私ですが、「巨人、大鵬、卵焼き」と称されたこの人だけは取り上げなければいかんでしょう。ロシアのコサック民族の血を引いています。新入幕で初めて敗れた柏戸と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年(昭和36年)に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築きました。ライバルの柏戸が休場勝ちだったため、大鵬ばかりが常勝、優勝を積み重ねたため、一時、相撲人気が落ちたくらいです。現役引退後は大鵬親方に。大鵬部屋を創立し、関脇巨砲丈士・幕内嗣子鵬慶昌たちを育成しました。2005年(平成17年)に65歳となって停年退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任しました。
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