仮想化ソフトなんて間接的な手法を使わなくても
最初から
Windows 用のソフトでも
Mac 用のソフトでも
稼働できるパソコンが
あればいいのに
どうして
どっちでも使えるコンピュータは
存在しないのだろうか。
ここで急に哲学の話をすると
嫌がられるかもしれないけれど
物事を(個別的なことや特殊的なことでも)普遍的に考えようとすると
哲学が一番役に立つし
自分には解りやすいので
自然とそうなる。
で
Windows と Mac の
両方を使えるコンピュータが
なぜ存在しないのか
ということなんだけど
普通は
Windows は「ビジネス向け」
Mac は「動画編集や音楽制作や DTP などクリエイティブな作業向け」
と区別されるように
人の
悟性(理系的思考回路)
と
感性(文系的思考回路)
は
具体的な個人において
「どちらかに偏った能力として最初から与えられている」
場合が
ほとんどだ。
例えば
高校で
「文系か理系か」
を選択するように
「理系の科目、数学や物理が得意な人は
国語が弱く」
「文系の科目、国語や哲学が得意な人は
数学が弱い」
という場合が多い。
どうしてそうなのかは
わからないけれども
「論理的な思考力の強い人は
直観的な創造力が弱い場合が多く」
「直観的な創造力が得意な人は
論理的な思考が苦手である場合が多い」。
なので
「論理的な思考力(悟性)と
直観的な創造力(感性)との
両方が同じ程度に優れている人」
は
「天才」
と
呼ばれる。
そういう意味では
コンピュータの世界では
まだ「天才」が
出ていないのだろうか。
カントは
人間の能力を
悟性と感性に峻別して
それらが
「統合」された能力を
「理性」としていた。
そして
「悟性」と「感性」を
「統合」して「理性」とするのは
「産出的構想力の図式機能(図式的直観)」だと
カントは考えていたと思う
(
超越論的図式論:悟性と感性の共通の根としての超越論的構想力=産出的構想力)。
だとすると
「悟性と感性を
産出的構想力の図式機能によって
統合して
ア・プリオリな総合判断が可能な
理性」
を備えた
「コンピュータ」
は
「未だ存在していない」
ということになる。
まあ
コンピュータは人間ではないし
(作っているのは人間だが)
人間でさえ
「悟性と感性を統合して
悟性と感性を対等に使って
ア・プリオリな総合判断を行使する
カントの意味での理性を
実現できている人」
は
稀(まれ)なのだから
その人間
(悟性か感性の
どちらかに偏った能力だけが
アンバランスに発達している生身の人間)
が作る
コンピュータが
「悟性に偏っている(Windows)か
感性に偏っている(Mac)かの
どちらかしか
存在していない」
のは
仕方がないのかもしれない。
昔 Epson が
98のコンパチ(互換機)を
作っていたことがあったけれども
どこか
Windows と Mac の
「両方のコンパチ(互換機)」
を
作らないものだろうか。
まあ
もし作ったとしても
Windows 側からも
Mac 側からも
訴えられるだろうし
そもそも
Windows を使っている人や
Mac を使っている人に
受け入れられるかどうかも
わからない。
現実的には
「WindowsマシンとMac の
両方を所有する」
ことで
「Windows か Mac か」の
「問題」は
「解決」するのだが
そこには
「経済的な問題」が
生じて
実際には
両方を
(しかもどちらも
「メイン機」として使えるほど
「高性能機」を)
揃えるとなると
「金銭的に無理」
な場合が多いだろう。
しかも
両機の「結合度」も
Mac の「AirDrop」や「SideCar」の「機能」のように
「Mac と iPad と iPhone を
まるで一つのコンピュータのように
データの移動や利用を
自由自在に行える」
仕組みは
Windows 機と Mac を
両方揃えている場合には
実現しない。
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最終更新
令和2(2020)年12月29日 午前3時05分
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