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2020年12月26日01:25

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「一切皆空」の意味

2020年12月25日午前8時25分頃
「一切皆空」の「意味」について
次のような
「直観」が
「生じた」。

それは

「「一切皆空」
 とは
 「現象界の一切は
  本当には存在していなくて(真実在ではなくて=「空」であり)
  本当に存在しているの(真実在=ウーシア)は
  宗教原理
 (「神(祖先のプリウス)」と
  「仏(子孫のプリウス)」と
  「霊(両者の関係を離れ難く結びつけている「こと(動詞の当体)」)」の
  「三権分立な三位一体」)だけ」
 ということ(意味)だ」
(ここで「こと」とは言葉の世界で「動詞」を「生み出している当体」であり
 「もの」が言葉の世界において「名詞」を「生み出している当体」であることと
 対照的な意味で用いている。「こと」は「出来事」とも解釈される。
 日本の人間学的精神医学者である木村敏(1931年〜)は「こと」を重視している。)

という「直観」。
(この「直観」は
 これまでの通説である
 「一切が空であり(色即是空)
  空こそが一切だ(空即是色)
  という「解釈」を
  越えている。
  そして
  「一切」で示されている「意味」が
  「我々が、我々の能力のみを用いて
   感じたり(感性を行使して感じ取ったり)
   考えたり(悟性を行使して考えたり)
   して
   知ることのできる総(すべ)て(=一切)」
  であり
  それは
  「我々に「神・仏・霊の三権分立な三位一体」が
   直接(直観として)伝えてくる「こと(出来事)」を
  「受容」した時に初めて
  「自覚(「神の啓示」や「悟り」により生じる「再生意識(再帰意識)」)」
  するところの
  「宗教原理(真実在)」を
  含んではいない
  ということを
  伝えている

  と共に

  我々が
  我々の能力を
  越えた
  「宗教原理(神・仏・霊の三権分立な三位一体)」
  を受けて
  人間として再生した時に
  初めて知る(自覚する)ことは
  「これまで経験的に知ってきた総て(一切)は
   空であった(真実在ではなかった)
   真実在は宗教原理だけであった(天井天下唯我独尊)」
  ということ
  (「天上天下唯我独尊」の「我」は「自我意識」ではなく
   「アートマン(内在超越者)」であり
   その意味で「ブラフマン(外在超越者)」の「子(子孫)」だが
   ここでは「ブラフマン」や
   「ブラフマン」と「アートマン」を「結びつけている霊」も
   含めて
   「宗教原理」と捉えている。)

ここで
「現象界」
とは
「我々が通常「存在している」と思う
 感性(感覚・知覚・感官)によって
 知ることのできる
 「間接的世界」の総(すべ)て」
である。

また
「宗教原理」
とは

「人間に
 外在的(啓示)であれ
 内在的(悟り)であれ
 
 超越的(外在的)
 または
 超越論的(内在的)
 に

 したがって
 人間の「意識」の「能力(可能性)」を
 「越えて」

 人間に
 「本当の存在(真実在)」
 を
 「本当の存在
  (真実在
   =(1)祖先としての外在的超越者
    と
    (2)その子孫としての内在的超越者
    と
    (3)両者を離れ難く結びつけている「こと」
       としての
       「霊(ルーアッハ、プネウマ、気、精霊)」
    の
    「三権分立な三位一体」)
 として
 伝える
 「こと(出来事・行為・言葉)」
 を
 生じさせている
 「本体」
 であり

 その意味で
 「本体」は
 常に
 「隠れて」
 おり
 「直接知る(感覚したり知覚したり意識したりする)ことのできないもの」」
のこと。

その
「直観
 (感性によって知ることのできる直感
  とは区別され
  感性を越えた
  それゆえ
  感覚・知覚を
  越えた
  真実在そのものが
  人間に
  直接的に伝えてくる時に
  生じること)」


「我々が普通
 「大切」
 だと思って
 「大切」
 にし、また
 「大切に保持している「もの」や「こと」」
 の
 「総(すべ)て(=「一切」)
 が
 「真実在」ではなくて
 ただの(単なる)
 「現象(真実在に見えるだけのもの・こと)」

に過ぎず

「本当に大切なの(真実在)」


「(1)外在超越者
 と
 (2)内在超越者
 と
 (3)その両者を離れないように強く結びつけている
    精霊(1.万物の根源をなす不思議な気。精気。
       2.草木・動物・人・無生物などの個々に宿っている
         超自然存在。
       3.肉体または物体から解放された自由な霊。
         死者の霊魂(しょうりょう)。
         以上『広辞苑』第五版「精霊」より)
 とが
 「三権分立(互いに独立の存在として)」
 ありつつ
 同時に
 「三位一体(Trinity, Trinität, Dreieinigkeit)」
であり

そして
「そのこと」

「その真実在そのものが
 人間に
 直接伝達することが生じること
 (宗教体験の自発)」
によって
人間が
「自覚」
することだ
ということを
「直接」
伝える内容。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

「直観」
として
「伝わった内容」


「我々が普通
 「一番大事」
 と思って
 守っているものは
 実際には
 「空(ナンセンス=無意味=真実在ではない)」
 である。

 「本当に大事なこと」
 は
 「我々が大事だと思っている現象そのもの」
 を
 「生み出している当事者」
 であり
 この
 「現象界を生み出し続けている当事者」
 は
 「現象界に現れることなく
  しかし
  実在していないのではなくて
  本当の意味で実在しているもの・こと」
 である」

ということ。

なので
「現象界に現れることなく
  しかし
  実在していないのではなくて
  本当の意味で実在しているもの・こと」

「世界」

「真実在界」

呼ぶならば

「真実在界」

「我々の感性を越えてはいるけれど
 実在していて
 我々が感性で掴むことのできる限りの現象界の存在を
 保証している当のものの世界(場所)」。

そういう
「(真実在の)場所」
(これは
 西田幾多郎の術語で言えば
 「絶対無の場所」(絶対無が「見るもの」として機能している場所)
 であり
 シェリングの術語で言えば
 「絶対プリウス(das absolute Prius)」の場所
 (絶対プリウスが現象界を生み出しつつ、
  現象界の存在には気づかれずに隠れている場所)
 であり
 ホワイトヘッドの術語で言えば
 「actual entity(現実的実質)」の場所
 (actual entity が現象界では actual occasion でありつつも
  actual occasion とは異なる超越存在として実在している場所)
 である。)

「我々の実在界(現象界)
 とは
 異なる原理」
で動いており

「我々の現象界の「常識」
 は
 通用しない」

ということだった。

とはいえ
我々は
現象界に生きて
現象界を「現実(真実在)」だと
言い聞かされて生きており
現象界のさまざまな「規範(法を頂点とする規則や倫理の総体)」に
「拘束」されていて

この
「規範」を
越えた
「言動」の自由は
許容されない。

そういうわけで
歴史的な
宗教家は
現象の世界(現実的社会、歴史的現実)の中で
「現象界の原理」にしたがって
「処置(処刑や裁定)」されることを
免れない。

なので
宗教家自身は
「現象界の原理(現実的社会、歴史的現実)」
によって
「葬り去られる」
事になる場合も多い
けれども

そういう
「現象(現実、歴史)」

「越えた世界の原理」

「その死」

「空(無駄)」
だとは
「判断しない」。

「判断しない」
けれども
「現象界」
では
「犬死(いぬじに=無駄な死)」
だと
「評価」されたまま
(一部の信者には「理解」されるかもしれないが)
「歴史の中で埋もれたまま」
であり
多くは
「記録すら消えて無くなり
 誰も顧みることも出来なくなる
 (その宗教家の「行(おこな)い」や「思想」は
  そもそも「存在しなかったこと」として
  歴史の世界から抹消されることになる)」。

それは
例えば
我々一人ひとりの
「直径祖先」を
「辿ろう」
としても

「戸籍」が
「残されて」いなければ
(日本で取り寄せることのできる
 最も古い戸籍は
 明治19(1886)年の戸籍。
 これが「改製原戸籍」。
 これ以上は「歴史的資料」が残っていない限り
 遡(さかのぼ)れない)
「辿れなくなってしまう」
ように。

けれども
人間の「身心」は
「意識」を「越えて」
人間に
「一人ひとりの直径全祖先の記憶」を
「本人が気づかない場所」に
「保管」しており
(現象界である
 現実の社会では
 戸籍として残されていなくても)

何らかの「条件(環境)」が
「整った場合」には
我々一人ひとりの「意識」へ
「直接的・自発的に生起する(「直観」される)」
こともある。
(これは「自発」なので
 「必然」ではない。
 かといって
 通常「偶然」という言葉が持つ
 「たまたま」という意味を
 「越えて」
 「具体的であるからといって
  偶然で一回性の現象ではなく
  「その環境下では何度でも必然的に生じ得る普遍的な出来事」
  として「普遍性」であるので
  ヘーゲルの術語でいうところの
  「具体的普遍(die konkrete Allgemeinheit)」
  である。)

我々は
「戸籍」を辿ることによって
(父方の祖先のみならず
 母方の祖先も同様に)
「直径祖先の家系図」

作成することはできるが
それも
(歴史的に著名な人物でない限り
 歴史的な資料は残されていないので)
「明治19(1886)年」

「最古の証拠」
となる。

けれども
「宗教原理」

「一人ひとりに平等に無償」

「生まれつき付与されて」
いて
「生きている限り
 生涯ずっと」
「真実在」
として
我々に「内在」し続けている
「超越者」だ。

その
「内在超越者」
からの
「声(直径全祖先の意志)」

「直観」
することが
「宗教体験」
であり

これによって得られた
「自分自身に特有(固有)な宗教原理の自覚」
を元に
「生きる」
ことが
「総ての人間の課題(理想)」
だということを
伝えるのが
「宗教」

「役割」。

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最終更新
令和2(2020)年12月26日 午前2時15分
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