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2020年12月09日09:51

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学術と教育の方法について

私は
今年で61歳にも成る老人だが
いまだに現役で教育を受けている。
(しかも社会人入学ではなく
 普通に現役で入学・進学して
 現在の大学院に在籍している。
 その間
 一度だけ
 塾講師に就職したことあったけど
 3ヶ月も経たないうちに辞めてしまったので
 実質、社会経験ゼロ。)

私ほど長く
教育を受けている人は
稀だと思う。

だから
「学術の方法」や
「教育」についての
「経験値(経験年数)」も
誰よりも「高い」と思う。
(家庭教師は
 1979年頃から
 1995年まで
 16年間
 小学4年生から
 高校3年生まで
 たくさんの人数
 教えてきたし
 京大の大学院博士後期課程では
 求められて哲学を講義したこともあるので
 教育を「する」側の「経験値」も
 結構「高い」とは思う。
 ただし
 大学の教員として
 採用されたことは
 ティーチング・アシスタントとしては
 半年間くらいは
 勤めたことあるけれども
 これは大学院博士後期課程の院生の
 アルバイトのようなものであるから
 正規の大学教員としての
 採用歴は無い。)

経験値だけ高くても
「修得」できていなければ
つまり
「学術の方法」や
「教育の内容」を
「受容」できていなければ
「意味」ないと言えるのだけれども
(そして私は
 未だに
 私が学んだ学部や研究科の
 つまり
 商学(経営学・経済学=大阪市立大学 商学部商学科)や
 文学(哲学・宗教学=関西大学大学院 文学研究科)や
 教育学(教育哲学=京都大学大学院 教育学研究科)の
 「博士号」を
 「取得」出来ていない
 ので
 商学や文学や教育学の
 方法や内容を
 研究者として自立するために必要な水準では
 修得していると言えないのだが)

今まで長く
現代日本の「教育」を受けてきて
(留学経験がないので
 国外の教育の実際の経験値は「ゼロ」なのだが)
「想うこと」が
ある。

その「第一」は
「学術の方法について」であり
それは
(1)「学術の方法」として
   現在通用している「文献学」だけで
   いつまで研究を続けていても
   「原理」を掴むことは出来ない
ということ。

「第二」は
「教育の方法について」であり
それは
(2)「教育」
   特に「大学院教育」では
   「語学の運用能力の修得」を
   「第一選択」としている
   けれども
   「語学の運用能力の修得」以上に重要な
   「原理の運用能力の修得」が
   全く省(かえり)みられていない
ということ。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

(1)「学術の方法」に関しては
後期のシェリングによる「積極哲学」や
西田幾多郎による「場所的論理」や
ホワイトヘッドによる「歴程の哲学」が
その模範となる。

現在の「文献学」は
確かに「教育」しやすい方法ではあるけれども
(「Wikipedia」の「編集方針」も基本的に「文献学」に則っている)
そして「文献学」は
「学術の方法」の
「不可欠な基礎的要素」であることは
私も認めるのだけれども

私が言いたいのは
「文献学」が求める要素(前提条件)さえ満たされれば
「学術」であると捉える考え方が
「未だ不十分」だということ。

「客観的条件」だけ揃えれば
「真実」が伝わると
「考える」ことが
「必要十分条件」を
「満たしている」とは
「言えない」と
考えている。

じゃあ
「主観的条件」を揃えれば良い
と考えているのか
といえば
「そう」ではない。

そうではなくて
「客観的条件」の
「内容」は
「文献」に
「尽きる」
のではないし

それだけではなく
また
「文献」が
(「文献」も
 「誰かの主観」たる「著者」に依る「制作物」であるのだから)
「総ての主観的要素を払拭できている」と
捉えている「文献学」では
「学術的であるとは言い難い」
と考えるからである。

それに
「主観」の中には
「個人的な主観」以外に
「主観的客観」と呼びうる
「普遍(一般者)」が
潜在しているので
「主観」を総(すべ)て排すると
「十全な客観」を
掬(すく)いきれない
(汲(く)み尽くせない)
ことになってしまう。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

また
(2)に関しても
常々言っているように
「語学」よりも
「原理」を「直接掴む方法」
に習熟しない限り
(「原理を獲得するための方法」とは
 最も古典的には「宗教的修行」であったのだけれども
 現代では「自律性療法」が開発されていて
 「自律性療法」はしかし
 「心身症」の「治療法」に限定されており
 「自律性療法」を
 「原理獲得法」として用いることは
 現状では為されていないために
 誰も「原理」を「獲得」しないままに
 闇雲に
 また
 盲滅法(めくらめっぽう)に
 当てなく単に事実のみを収集するに留まる
 (それは Factfullness としては客観的で問題ないのだが
  Factfullness と Mindfullness の両輪が揃わないと
  十分に人格的な人間には成長できないのではないか
  と思う)
 ことになってしまう。)

「手段」に過ぎない「語学」に
いつまでも留(とど)まって
「目的」である「原理」を
「知らない」学者を
大量生産(量産)する「教育」で終わることになる
(実際、学者は現実問題の解決に疎(うと)いことが多い)
ということ。

「語学」ができることは
大きなアドバンテージであることは
否定しないし
そのことが学術の「前提」であることも
認めて受け入れるのだけれども

「それで十分」と思って
「そこに留(とど)まる」ことが
「原理を掴めない大量の研究者を生産するだけの教育」に
終わっている現状を
打破できない原因だと思う。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

国家の方針としての「教育」が
そのような水準に留まっているとしても

個人的に
そのような「限界を持つ教育」を
「突破」
した
「原理を掴める方法に依拠した学術」

私は
「実践」
してゆき
その
「結果」としての
「書物」や
その他の
「伝達手段(文章や絵画等の静的存在物だけでなく動画等も含む)」

「創造(クリエイト)してゆくこと」

「人生の目的」
としたい。

そして
そのことを実行してゆくためにも
自分自身の体と心が
「健全」である必要がある。

なので
「体(質料)」と
「心(形相)」の
「両翼(両輪)」共が
「健全」であるために
「必要不可欠」な
「条件(方法)」を
しっかりと
踏まえて
「健全な体と心」で居(い)られるよう
十分に調べて(勉強して)
実践したい。

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最終更新
令和2(2020)年12月9日 午前11時43分
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