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2020年12月06日04:29

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抽象的普遍と具体的現実問題

ヘーゲルは
die konkrete Allgemeinheit(具体的普遍)
ということを
言う。

けれども
シェリングの批判が正しいとするならば
具体的普遍は
普遍概念に過ぎないので
実在
(具体的普遍=具体的一般者を
 「実在」だと捉える解釈は
 西田幾多郎のものだが)
では
あり得ない。

もしも
「具体的普遍」を
「実在」だと
したいのであれば
「普遍的具体=die allgemeine Konkretheit」
あるいはむしろ
(Konkretheit も「概念」に過ぎないので)
「普遍的個別(普遍的個物)=die allgemeine Einzelheit」
と言わなければならない。
(Einzelheit も -heit で終わる限り抽象名詞と捉えられるが
 念のため、ヘーゲルの『大論理学』の
 「Allgemeinheit - Besonderheit - Einzelheit」の論理では
 「普遍的概念 - 特殊的概念 - 個別」と、
 前の二つ(Allgemeinheit、Besonderheit)が「概念」
 であるのに対して「Einzelheit」だけには
 「個別(個物)」として、
 「実在」の地位が与えられていたことを付言しておく。)

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

ところで
「具体」を
「具体的現実問題」
と捉えると

ヘーゲルが言わんとした
konkrete Allgemeinheit(具体的普遍)

「具体的な現実問題を考える時にも
 普遍的な考えを踏まえれば
 最もうまく解決できる」
ということだった
と思う。

自分自身の現実問題を解決する場合
(キェルケゴール みたいに)

シェリングが『啓示の哲学』で言ったことを
(「私は個人の問題が聞きたかったのに
  シェリングは神の話しかしなかった」と)
無視するのではなく
シェリングが言う「積極哲学」を
普遍的な原理として
踏まえた上で

キェルケゴール も
自分自身の具体的な現実問題を考えることができれば
そんなに早く死なずに済んだのではないかと
残念だ。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

ところで
私の「体」の現実問題としての
(1)代償性肝硬変(C型肝炎ウイルスは除去済み)
(2)胆石
(3)血管年齢(70歳)
を解決する為に
(1)肥満(食餌療法:スルフォラファン=ブロッコリースプラウト)
(2)胆石溶解療法(ウルソデオキシコール酸など)
(3)悪玉善玉コレステロール比(LH比)=「芋・豆・菜葉」食
などに注意しつつ
「体質改善」
する。

そして
私の「心」の現実問題としての
☆「倫理を逸脱する力」
に対する
「最善対処法」を
見出して
実践すること。

「倫理」は
いくら自分が守っても
「倫理」を「逸脱する力」を
「倫理(人倫の原理)」が
消してくれるわけではないので
(なので「規則」に対して
 常に「罰則」があるが
 「倫理を逸脱する力」は
 「処罰」では「消せない」)

問題は
「倫理を逸脱する力」

「どうすれば消せるのか」
という問題を
解かなければならない。

あるいは
「倫理を逸脱する力」が
「不可抗力(消せない力)」
であることを
認めるのであれば
「不可抗力(消せない闇の力)」
に対して
「どう対処することが最善か」
という問題を
解くのでなければならない。

そういう
「現実の超難問(konkrete Ultrafrage)」を
「解く(auflösen=ほどく、溶解する)」ことこそ
「哲学の醍醐味」
なのだ。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    

「倫理を逸脱する力」
に対して
「怒り」が
「刺激されて立ち上がらない」
ためには
「倫理を逸脱する力」
に対して
「倫理を守る善意」で
対抗するだけでは
不十分だ
ということに
気づくべきだ。

というのは

「倫理を逸脱する力」

「倫理を守っている善意」
が見れば
「自分は我慢して倫理を守っているのに
 あいつは我慢せずに
 好き放題しやがって」
という
「怒りの感情が立ち上がる」
のが
「人情」だからだ。

「倫理を逸脱する行為」は
「危険を呼ぶ行為」であるから
本来は
「避けるべき危険行為者」であり
「君子危うきに近寄らず」が
「最も正しい対処法」
であろう。

つまり
「倫理を逸脱する行為者には
 自分が直接かかわらず
 倫理を逸脱する者を
 裁く者に
 制裁を任せて
 自分は安全地帯に
 避難しておくべきだ」
という
「回答」が
「賢者の判断と行為」
ということになる。
(そう言うとなんだか
 傍観者でいるだけで
 現実の問題を避けているだけのようだから
 具体的な対処法について
 細かく知っておくことも大事だろう。
 けれども
 刑事裁判にせよ民事裁判にせよ
 あるいはハラスメント相談窓口にせよ
 「倫理を逸脱する不届き者」を相手にすることは
 労力も気苦労も時間も経費も多く必要とし
 結局、人生を振り返る時に
 「無駄な時間だった」
 「できれば避けたかった」と
 後悔することになるだけだろう
 ということ。)

「感情に振り回された人生を送らなかれば良かった」
と死ぬ時に後悔したくなければ
「感情が刺激されて振り回されること」

「回避すべき」
という
「回答」が
必然的に導かれる。

なぜならば
「倫理を逸脱する者」は
「常に倫理を逸脱する必然性を持つ者」
であるから
(細胞でいえば悪性腫瘍と同じく
 逸脱を必然とするものであるから)
これに倫理を説いても
「不能な議論に終わる
 (徒労に終わり
  「骨折り損のくたびれ儲け」な)
のだということ。

☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    ☆    


「研究公正チュートリアル」の
「受講証」を
取得する為に
『科学の健全な発展のために:誠実な科学者の心得』
を読んでいるけど

これは
「日本学術振興会」の
「科学の健全な発展のために」編集委員会が
作成したテキストだ。

ということは
「日本学術会議」が
作成したテキストだろう。

この書物には
「学者が守るための倫理」
について
書いてあるけれども

「学者が受けた反倫理行為に対して
 どのようにすべきか」
という現実問題への
回答が抜けている。

だからこそ
「日本学術会議」は
自分より「権力」バランスが「上」である
「政府」による
「反倫理的弾圧(日本学術会議が推薦した会員を政府が任命しなかった事案)」を
受けても
「戦前の思想弾圧と同じだ」と
反論しているけれども
結局は
「反倫理」を「行為」した「政府」を
「処罰」できないまま

「泣き寝入り」
している。
(メディアも国民も
 「対岸の火事」あるいは「他人事」として
 あまり興味を抱かない。)

けれども
上記のテキストには
「科学者の反倫理行為を正すのは
 科学者しかいない」
と書いている。

ところが
「科学者ではない者による
 反倫理行為を受けて
 科学の自由が侵される場合
 如何にすべきか」

「回答」を
上記のテキストは
持たない。

大切なのは
「倫理を守れ」と言うだけではなく
「倫理を守らない者によって
 守っている者が
 被害を受けた時に
 どう対処するのが正解であるのか」
ということに対する
「答え」を
教える側は
持っているのでなければならず

また
「倫理を守らない者によって
 倫理を守っている者が
 被害を受けている現場で
 倫理を守っている者を
 守れる人」に
教育者は
なるのでなければならず

そういう「立場」に
「いつも立っている人」であることが
「人格者であることが理想として求められている教育者」の
「前提条件」だと
思う。

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最終更新
令和2(2020)年12月6日 午前5時29分 
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