mixiユーザー(id:2223977)

2020年10月23日00:53

143 view

論文博士目指すなら(博士号の取得を目指すことのナンセンス)

博士号は
課程博士でないと
取れないと思っているが

もしも論文博士号を
目指すとしたら
論文博士に必要な
最低限度の素養を修得すること
だけは
目指そう。

そもそも
そういう考え方が
博士ではないし

だから
論文博士を
目指しても無駄なことは
知っている。

だったらやはり
課程博士の可能性のあるうちに
課程博士を目指すことで
計画を立てた方が現実的だ。


その「素養」。

今まで避けてきたことだけれども
語学の運用能力。

いったいこんなものが
なぜ学問の第一素養と捉えられるのか
私には理解できない。

私にとって
学力の素養第一は
宗教経験のあるなし。

宗教経験を持つことは
宗教経験を持たないことに
絶対的に優位。

語学の運用能力なんて
誰でも時間をかければ
ある程度できるようになる。

けれども
宗教経験は
時間をかけても
得られるとは限らない。

なので
宗教経験を持てた
ということは
時間や労力を越えた優位を
獲得していることになる。

そういった評価は
学界では存在しない。

なぜなら
宗教経験を
学問は価値と捉えないからだ。

なので
私がやろうとしていることは
果たして学問なのか
というと
単なる学問ではないことは
確かだ。

けれども
学問ではないとは
言えない。

なぜなら
単なる宗教経験ではなく
学問でもあろうとするからだ。

けれども
大事なことを優先するので
いきおい
語学の運用能力の修得は
後回しになるのだ。

だって
総ての言語は
そのうち
人工知能が全部翻訳できるように
なるだろうからだ。

なので
語学の運用能力の修得に
時間を割くのは
無駄以外の
何ものでもない
と私は考える。

なので
博士号とか
そういう制約に縛られないで
自由に学問すべきなのではないか。

最優先事項を
優先して
そうではないことを
カットした研究が

世間一般の
というか
学界一般の
常識から外れていて

そのせいで
無視されてしまうことになったとしても

学界の常識に縛られて
いつまで経っても
解明したいことが解明できないままでいるよりも

解明したいことを
さっさと解明してしまうことを
第一に優先した研究方法で
研究して

自分が納得のゆく
哲学を残すことに

残り少ない人生を
捧げたい。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年10月>
    123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

最近の日記

もっと見る