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2020年10月19日17:25

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天草・島原 (キリシタン郷巡り)

先週の4日間、熊本・長崎に出かけた。十数年前に台風襲来で中止した天草・島原・平戸への旅プランを、GoToトラベルを利用して実行したっていう訳。
熊本空港へ着地し、レンターカーで各地を駆け巡り、長崎空港から離陸した3泊4日の足はや旅行。今回は、熊本・長崎の市内はパスし(三密を避けたかったこともある)、もっぱら天草下島・南島原雲仙・平戸生月・長崎出津の潜伏(隠れ?)キリシタン関連の郷をウロキョロしてきた。

 何故、潜伏キリシタン郷への旅なのかに関しては、多分十数年前に読んでいた大佛次郎『天皇の世紀』の「旅」との長い章の印象が強かったからだったろうと記憶する。
この膨大な「旅」の章では、明治維新以降でも続いたキリシタン迫害の実態が克明に記述されている(浦上四番崩れとよばれる悲劇で、明治政府は浦上切支丹を(1868年に114人,1870年には3,280人)西日本各地に分散して流罪にし迫害した)。タイトル「旅」とは、この流罪移送の旅を表してる。
鞍馬天狗で有名な大佛次郎が膨大な頁を割きこの事件に拘った理由については、「浦上のキリシタンがひとり「人間」の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない。日本人としては全く珍しく抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にもこれまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難である」と書いていた。

 天草では、下島の最南西端に近い崎津集落の崎津教会と大江教会を訪ねた。いずれの教会も昭和初期の建立の実に見事な建物。
漁港でもある津崎ではガイドさんに集落内や教会を案内していただいた。宗徒の家には今でも注連縄が掲げられ、宗徒たちは集落の神社で密かにキリシタンの祈りを行ったとか。宗徒の各種儀礼儀式は、神道・仏教・キリスト教のそれらが混ざり合ったものだったようだ。また当然、集落内には仏教徒も住んでいたが、互いは宗門の違いをこえて仲良く住んでいたとか。崎津教会の内部はめずらしく畳敷きであり、祭壇は禁教時代に厳しい絵踏みが行われた場所に配置されているとか。
大江教会は、残念ながらコロナ禍のため内部へは入れなかった。大江には、明治四十年に与謝野鉄幹・北原白秋・木下杢太郎・平野万里・吉井勇の5人が訪れ、時の神父ガルニエと面談したそうな(『五足の靴』)。吉井勇の歌碑があったそうだが見落とした。

 キリシタンに係わる、ごく雑駁な天草の歴史をたどると、キリシタン大名小西行長の時代に宗徒が増大、関ヶ原の戦いの後(行長斬首後)は唐津藩の飛地となり過酷な課税(実際の二倍以上もの石高と設定された)とキリシタン弾圧を受けたようだ。それに飢饉が加わり、ついに寛永14年(1637年)、島原・天草の乱に天草の人達も加わったんだとか。

 乱後しばらくして、天草は天領になり江戸から鈴木重成という代官がきて善政を敷き、実際の二倍以上もの石高の半減を幕閣に上申したが、江戸期の幕閣という官僚主義には勝てず、聞き入れられないままに自刃して果てた。この自刃で幕閣はようやく重成の上申どおりに修正したとか。
余談だが、この鈴木重成の兄が、『破切支丹』を書いた曹洞宗禅僧鈴木正三だそうな(山本七平さんは『勤勉の哲学』で日本教の元祖だとしてる)。実際、鈴木正三も天草入りし、宗徒の「農民にキリシタンからの改宗を勧めたらしい。それでか天草には曹洞宗徒が多いそうな。

 翌日、鬼池港からフェリーで対岸の島原半島口之津港に渡り、島原・天草の乱の中心地原城跡を訪ね、有馬キリシタン遺産記念館に立ち寄り、雲仙温泉の地獄めぐりし宿に入った。
島原・天草の乱については、よほど有名なのでクドクドと書くには及ばないだろう。キリシタン大名である有馬氏の転封の後に大和五条から松倉重政が入封し、年貢を過重に取り立て、厳しいキリシタン弾圧を開始。次代の松倉勝家も重政に輪をかけたような過酷ぶりを発揮。その過重な税の取り立て、キリシタンに対しての苛烈な拷問・処刑ぶりは、まことに胸糞が悪くなるばかり(雲仙温泉の雲仙地獄の熱湯をかける拷問はスコセッシ映画「沈黙」の冒頭に登場する)。
この苛斂誅求ぶりが百姓農民の一揆をさそった訳だが、松倉勝家は反乱勢がキリスト教を結束の核としていたことをもってこの反乱をキリシタンの暴動とし、幕府もこの乱を後々のキリシタン弾圧の口実に利用したため「島原・天草の乱=キリシタンの反乱(宗教戦争)」という見方が定着と言えるか。

 以上言葉足らずは、下の動画で補ってもらうことにしたい。


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