2020年10月04日22:52
195 view
p.117
たとえば、スキタイの王権神授においては、弓(矢)を父親が息子に授与することによって合法的な王位継承が行われていた(Raevsky 1977,pp.30-33,figs.1-2)。また、スキタイの王アタイアス(Ataias、前4世紀)は4ドラクマ銀貨に弓矢を持つ自分の騎馬肖像を刻印しているが、その弓矢はスキタイの祖先(ヘーラクーレス=タルギタオスともいわれる)から正当かつ正統な王位継承によって受け継がれたものである(Rogal'sky 1974; Raevsky 1977,fig.11)。このようなイラン系民族の王位継承に関する伝統は、中央アジア出身のアルサケス朝(安息)パルティアの王権神授図(歴代の国王が発行した銀貨(図60-1)裏面に刻印された王朝の開祖アルサケスの合弓を持つ倚像、図60-2)に脈々として継承されているのみならず、フラーテス4世(前38-4)がローマの使節に謁見を許した時に、弓を手にして玉座に坐っていたというローマ側の史料(Dio Cassius XLIX 24,4)によっても証明されよう(Zeimal ' 1982; Brentjes 2000,p.13,figs.1-6)。
また、ササン朝のシャープール1世はイラン南部のハージーアーバード(Hajiabad)とタンギ・ボラーク(Tang-i Boraq)の岩壁にほぼ同一のパフラヴィー語碑文を刻んでいるが、その中で国王が強弓を引いたことが述べられている(奥西 2004)。その行為は無論、シャープール1世が正統な王に相応しい素質(xvarnah)を備えていることを明示するものであった。
また、ガンダーラに関してはインド・パルティア朝のアブダガゼス2世(図61)、クシャン朝のソーテール・メガース(ウェーマ・タクトゥー)王(図62)も矢を手にした自分の胸像をコインに刻印している(Grenet/Bopearachchi 1997,fig.2)。
p.119
その一つ(図64)には、弓矢を持つスーリヤ神の従者たる女神(ウシャスとプラティウシャス、あるいはサムドゥヤー:Usas=Usa,Pratyusas=Pratyusa,Samdhya)が描写されている点であろう(Banerjea 1956,p.436; de Mallmann 1963,p.76; 肥塚/宮治 2000,fig.34)。これら弓矢を持つ従者は暁紅の女神(Aurora)であるが、夜の暗闇や夜の悪霊を雲散霧消させることを象徴しているという(Stutley 1977,p.314; Markel 1995,p.22,figs.4,5)。…
…たとえばウシャスは「輝きつつ暗黒の囲みの扉を開けり」、「暗黒を逐いやりて女神は、光明を創造せり」などと記されている(辻 1970,pp.56-61)。
p.120
A・ピラスによれば「ヤシュト」などの『アヴェスタ』文献に現れる女神"usah-sura"(強力なウシャー)は辟邪の力を有し、光の進行や暁光の輝きを助長するという(Piras 2002)。
p.122
三叉戟がクシャン朝のウェーマ・カドフィセス王以来、国王に相応しい武器と見なされていたことは、同王以後のクシャン朝のコインに刻印された国王立像によって証明される(Rosenfield 1967,pls.II-XII; Gobl 1984,pls.1-53)。
https://mixi.j p/view_ diary.p l?id=19 7710963 6&owner _id=516 0461
p.128
結局、ファッロー神はアパーム・ナパート神がつかんでボウルカシャ湖(Vourukasa)の底に沈めるのであるが、アパーム・ナパート神は「水の中の火」と考えられていたのである。
…
更に、ファッロー神が手に持つ香炉は火神アトショー(Athsho、アータル=Atar、図69)の象徴である。…ただし、ガンダーラの仏教彫刻に描写された鍛冶ばさみを持つ男子像はアトショー神ではなく、ヴィシュヴァカルマン(毘首羯磨天)である(後第16章参照、村田 1985,fig.29-5; 栗田 1988,fig.59; 田辺 1993a:Tanabe 1995/96)。また、ファッロー神の本質は火であると考えられていたことも考慮すべきであろう(「ミフル・ヤシュト」第127行では、燃えている火はカイ王朝のクワルナフ・フウァルナー(Xvarnah=Pharro)である、Gershevitch 1959,pp.137,278; Carter 1986,p.92)。
また、ファッロー神像の大半(図67-1,2,4,6,7,8,9, 図68-1,2,4,6,9)には円形の頭光が付いているが、これはいわゆる世界楯(imago clipeata)や世界・宇宙像(imago mundi)と同じく、本来ゾロアスター教の「無量光の世界(asar rosnih, アフラ・マズダ神の住処)」を象徴するものである(田辺 1985b)。
p.129
次にファッロー神の衣服について述べると、クシャン族が着るカフタン(長袖の丈の長い上着=チュニック)、マントあるいは小型マントが用いられている場合が多い。小型マントはギリシア系のクラミュス(chlamys)で、グレコ・バクトリア王国のギリシア人国王によって中央アジアに導入された。
p.130
特にクシャン朝ではウルスラグナ神はウシュラグノー(Oshlagno)と呼ばれ、カニシュカ1世のコイン裏面(図17)に刻印されている(Gobl 1984,pl.8; 田辺 1992,fig.66; フィヴィシュカ王のコインではヘーラクレースで表されている、同書、pl.20-no.269)。
p.131
それによれば、その第7番目の変化ではウァールグナ鳥(ウァーレガーン=Vareghna=Vareghan)となり、第10番目の変化では武装した戦士となる(Darmesteter 1892/93,pp.560,562-68; Rosenfield 1967,pp.95-96; Shahbazi 1984)。…
…それゆえ、ファッロー神の頭部の鳥翼の由来は他の神に求めなくてはならない。
…それはフィヴィシュカ王が発行した金貨で、その裏面(図71)に槍を持つ王侯風人物が刻印され、ギリシア文字でイアムショーないしイアムシュー(IAMрO)と名前が記されている(Gobl 1983,p.82,pl.7-13:1984,pls.127-230B; Grenet 1984,fig.1; Gnoli 1989b,pp.920-923:2002,p.108; Humbach 2004,pp.56-57)。
p.132
まず最初の鳥はミスラ神(Mithra)により、第二の鳥は英雄のスラエータオナ(Thraetaona)により、第三の鳥は英雄クルサースパ(Keresaspa)によって捕らえられたとある。つまり、クワルナフ=フウァルナーはゾロアスター教徒の間では鳥で以て象徴されていたのである(ただし、ササン朝ペルシアでは牡羊を用いた)。
p.143
ヘルメース・メルクリウス神像やファッロー神像は弓矢を持たないので、毘沙門天像の持つ武器である弓矢は、クシャン朝のフヴィシュカ王の金貨裏面に刻印されているテイロー神(図21)に由来する可能性がある。…
テイロー神はゾロアスター教の男性神ティール(Tir)やティシュタル=ティシュトリヤ(Tistrya)に相当する。ティールはアヴェスタ語ではティグラ(tigra)と呼ばれたが、「尖った先」とか「矢」が原義である。矢はローマのミトラス教(Mithraism)でも「天を射て雨を降らすもの」という象徴が込められていたように、メソポタミアからイラン高原、更にインド(ルドラ神、インドラ神など)においては「雨を降らす」ものと見なされていた(Panaino 1995,pp.11,15,25-29,51-54)。ゾロアスター教の経典「ティシュタル・ヤシュト」では、「フウァルナーを付与されたもの」(xvarenanhuntem)という称号を付与されており、また光輝に満ちたものと讃えられ、雨(=大地の豊穣)をもたらす神と崇められていた(Panaino 1990,pp.27ff.:1995,p.1)。すなわち、テイロー神はファッロー神にほぼ等しい職能を持った神であったのである。
一方、雨師のようなティール=ティシュトリヤ神は軍神のウルスラグナに等しい機能をも有し、悪魔アーリマンの軍勢と戦う善なる戦士の中の最も強力なもの(champion)でもあった(panaino 1995,pp.39-40)。…更にティール=ティシュトリヤ=テイロー神はシリウス(狼星)と同一視された。また、古代メソポタミアの豊穣の神、mulKAK-SI-SA,sukuda,siltahu、ナブー神(後出、145頁)とアケメネス朝時代に習合したと推定されているが、ナブー神はヘルメース・メルクリウス(マーキュリー)神、アポローン神と西アジアにおいてセレウコス朝時代以後に習合したのである(Deonna 1959,p.28; Haussig 1986,pp.446-47; Bernard 1990,pp.52-62; Lipinski 1993,pp.133-34)。
p.144
トルコ東南部のコンマゲーネ王国では、ヘルメース神はアポローン神、ヘーリオス神と習合し、更にはイラン系のミスラ神と習合したことがアンテイオコス1世(前69-38)のギリシア語碑文から判明している(Απλλωνοσ Μιθρον Ηλιον Ερμον、Waldmann 1973,p.64ff.)。…
ヘレニズム時代の西アジアではヒエラポリス(シリア北部、現メンビジュ)において、ジュピター、ヴィーナス、マーキュリー(メルクリウス)の三尊形式が発達した。またイラク北部のハトラでは、マラン(Maran)、マルタン(Martan)、バル・マライン(Bar Marayn)の三尊がアラム語銘文から判明しているが、これはヒエラポリスの三尊形式に相応するといわれる。そして、ハトラの三尊形式はこの他、女神だけの三尊形式にも見られる(アルラト女神を主神とした場合など)が、これは新バビロニヤの三尊(マルドゥク神、イシュタル女神・ナブー神)の影響を示すと解釈されている(Ingholt 1954,pp.30-31)。ナブー神はマルドゥク神の使者であるところから、ギリシア人はナブー神をヘルメース神と同一視したが(Febrier 1931,p.97)、事実ハトラやシリア中部のパルミュラではヘルメース・メルクリウス(マーキュリー)神と習合したことが確認されており、ハトラではペタソス帽をかぶり、頭部に一対の鳥翼を付け、右手に財布、左手にカドゥケウスの杖を持ち、子羊を連れた青銅製メルクリウス像が出土している他、アブド・セミア王子のチュニックの表面の前面下方に、右手に財布(金嚢)を持つヘルメース神が浮彫りされている(深井 1958,p.56,fig.13:1980,p.142,fig.150:Fukai 1960,p.166,pl.2; Homes-Fredericq 1963,pls.II-2b,3,III-1; Safar/Mustafa 1974,pls.217,219; Tubach 1986,pp.371-72)。
このように土着の神と習合した例としては更に、トルコ南部のエデッサ(現エメサ)の土着(アラブ系?)の神アジズー・アジゾス(Azizou=Azizos)ないしモニモス(Monimos)と習合したことが指摘されている(Febrier 1931,pp.61-62; Teixidor 1977,p.69,n.13,p.88,n.61)。
p.146
デーメートリオス1世のコインの図柄を模倣したのは、インド・グリーク王国の南部地域をマウエス王率いるインド・スキタイ族が征服したことを誇示しようとしたとする見解もある(Widemann 2003,pp.105-18)。一方、マウエス王はインド・グリーク王国のアルケビオス王(Archebios、前90-80頃)の未亡人マケーネー(Machene)と結婚するなど、征服したギリシア人の支持を得ようとした(Widemann 2003,pp.95-111)。…更に、インド・パルティア王国のゴンドファレース王(Gondophares,Gundafarr)のコインに刻印されたいわゆるタウルス(=牛頭)ないしメルクリウス神のマークがカドゥケウスの形態に酷似している点、この国王の名前がファッローを獲得する、実現する(古代ペルシア語では"vi(n)da(h)farnah"という)である点を重視して、この国王がヘルメース・メルクリウス神の信者であるが如き極論を述べている学者もいるが、説得力に欠ける(Bussagli/Chiappori 1995,pp.109-111)。
p.154
これは明らかにクシャン族兵士の武装に由来するが、武力を神格化した神としては、ギリシアの軍神アーレース(Ares)をモデルとしたクシャン族の軍神シャオレオロー(Shaoreoro=シャーレーウァル=Sahrevar, 図87)が参考となろう(Rosenfield 1967,p.99,pls.III,X;)。
p.157
毘沙門天はサンスクリット語では"Vaisravana"あるいは"Vaisramana"といわれるが、毘沙門天像が初めて創造されたガンダーラで使用されていたプラークリット(ガンダーリー)語では"Visravana"、南インドなどのパーリ語では"Vessavana"、中央アジアのソグド語では"Vresaman"、アフガニスタンから近年出土したといわれるバクトリア語(ギリシア文字)の仏教文献の断片では"βησραμανο"(Besramano)と記されていた(Monier-Williams 1899,p.1026; Edgerton 1953,p.992; Liebert 1976,p.312; Benveniste 1946,p.58. バクトリア語の名称についてはロンドン大学のN.Sims-Williams教授により私信にて教示された)。また、毘沙門天と関係深いホータン地方のサカ語では"Vaisravana"の他に"Vaisramana"、"Vrrisama(m)"などと呼ばれ、ウイグル語では"Bisamin"ないし"Bisam(a)n tangri"といわれていた(Bailey 1982,p.6; 『望月佛教大辭典』、同上)。
p.162
その反論を詳細に述べる必要はないと思うので、簡単に筆者の反論の論拠を挙げておくと、まずミスラ神(図11、後出、図118、クシャン族の間では ミイロ=Miiro, ミウロ=Miuroと呼ばれた)の像容と毘沙門天のそれとは殆ど共通点がないのである。…
一方、第8、9章にて既述したように毘沙門天と習合したゾロアスター教の神は豊穣の神フウァルナー・ファッロー(Xvarnah/Pharro)(図15,67,68,86)であってミスラ神ではないことが、クシャン朝のカニシュカ1世やフヴィシュカ王が発行したコインの裏面、あるいはクシャン朝時代のスタンプ印章(図29)などに刻印されたファッロー神像と、ガンダーラの仏教彫刻に頻繁に描写された「ファッロー/アルドクショー女神像」(図30,31)との比較によって判明しているのである(Bachhofer 1937; 田辺 1992c:1995c; Tanabe 1993/94)。
p.164
それゆえ、毘沙門天(Vaisravana)という名称が東西南北の北方を守る守護神に付与されるに至った、すなわち「多聞天」と漢訳することが可能となったプラークリット(ガンダーリー)語の名称(Visrana)に相当する観念が出現したのは、北方の守護を司る天王像がガンダーラでクシャン族王侯ないし男子(ファッロー神)風に造形化されたことと軌を一にしていると結論できよう。
p.165
つまり、より具体的にいうならば毘沙門天(Vaisravana)という名称は本来、クシャン族の神ファッローをガンダーラにおいてプラークリット(ガンダーリー)語で表記したものではなかったかということである。
p.173
しかしながら、ヴァールミーキ(Valmiki)が編纂したといわれる第2〜6篇が前4世紀から後1世紀頃に現存の形にたとえなっていたとしても、第1篇及び第7篇は後世(2世紀末)の付加物と見なされている(岩本 1980,pp.258,347; 田中 1991,pp.24-26,49-51)。
p.175
ヒンドゥー教の第23番目の星宿は"sravana"というが、これはヴィシュヌ神に関係する鷲座に相当する(井之口 1995,p.74)。…フヴィシュカ王が発行した金貨裏面に刻印されたイマ(ヤマ、閻魔大王)像(図71)によって判明する。…この鳥姿のファッローと鷲座を結び付ければ、バクトリア語のファッロー神(Pharro)がプラークリット語(サンスクリット語)の毘沙門天"Sravana"と呼ばれ、そのように表記された可能性はあろう。そして、それを強調するために「傑出した」、「普通でない」という意味の"vi"を冠したと考えることができなくもなかろう。
p.177
事実、ホータンは経典の記述や中国人旅行僧の記録からも、ある時期、毘沙門天信仰が盛んであったことが判明している(Stein 1907,vol.I,pp.156-59,176)。また、この地にはイラン系のサカ(塞)族が住んでいたことが「ホータンのサカ語文献」の存在によっても判明しているので、北方の守護神であった毘沙門天がなぜ、インドから見れば「北方」に相当するホータン地方に住むサカ族などの住民の格別に厚い帰依を受けたかという理由についてもある程度予想できよう。特に6〜7世紀頃のホータンの王家が毘沙門天の子孫を標榜していたことが伝説として残っていることもホータンと(兜跋)毘沙門天との密接な関係を示唆していよう。更に、6〜7世紀頃の作と思われる武将姿の毘沙門天らしき塑像が若干、ホータン周辺の仏教寺院遺跡から発見されているのも、ホータンと(兜跋)毘沙門天像との密接なる関係を補強している。
p.183
このファッロー神はガンダーラでは豊穣の女神アルドクショーとペアー(図30,31)になり、同じく豊穣を司るパーンチカ(図72、クヴェーラ)とハーリティー女神(訶梨帝母、鬼子母神)のペア―像のモデルとなったことも既に述べた(41、48-49頁)。…ゾロアスター教では大地の女神はスプンタ・アールマイティー(シュ)(Spenta armaitis)であって、それはホータンのサカ語文献ではシャンドラーマター(Ssandramata)と呼ばれていた(Bailey 1971,pp.52,68)。シャンドラーマター女神はインドの吉祥・幸運・豊穣の女神シュリー(吉祥天)やシュリー・ラクシュミーと同一視されていたから、『ホータン国史』の記す毘沙門天と吉祥天のペアはクシャン族の「ファッロー・アルドクショー」に他ならない。それゆえ、ホータンの毘沙門天像の特色の一つとして、その配偶者(吉祥天=地天女、Sri=Vasudhara)を伴うというのは得心のいくところである。吉祥天が古代インドの場合と同様にホータンでも、地天女と同一視されていた蓋然性は大きいといえよう(Syed 1993,p.278; Gnoli 1996a,pp.690-91:1996b,pp.99-100)。
p.184
また、ホータンの南方の山岳地帯(ギルギット地方)のチラス(Chilas)の岩塊に刻まれたブラフミー文字銘(4〜5世紀)には、"srivaisravanasena"(栄光に輝く毘沙門天を主人とする)とか"sri vaisravanadasa"(栄光に輝く毘沙門天の僕)というダルド族(地方)の支配者の名前が記されている(von Hinuber 1989,volI,Text,pp.57-61,Plates,pls.116-121)。
p.186
ナレーンドラヤシャスは烏場国(パキスタン北部のスワート)の国の人で、六人の仲間とスワートからフンザ、ギルギットを経て北上し、雪山(パミール高原ないしヒマラヤ山脈)を越えて北進しホータンに至っているが、桑山正進の考究によれば6世紀半ばにこの地を通過している(桑山 1990,p.112)。…つまり、6世紀には道案内人としての毘沙門天が四天王の中から独立し、「道中を旅する人々の守護神」として個別の崇拝を受けるまでに発展していたことが判明するのである。…このような毘沙門天像の独立化は無論、クシャン朝後半からクシャノ・ササン朝、キダラ・クシャン朝など4〜5世紀には既に存在していたかも知れないが、しかしクシャン朝時代のガンダーラ文化圏では当時はまだ独立した造像が行われていなかった蓋然性が大きい。7〜8世紀のスワートでは至る所の摩崖(旅人の眼にする場所)に弥勒菩薩や観音菩薩の像が作られたが、毘沙門天が道祖神として祀られた例はまだ発見されてはいない事実が、そのように推定することを許すであろう(Filigenzi 1999:2000/01:2003)。
p.188
この浮彫(図100)では、重装(鎖帷子)のアルダシール1世、皇太子のシャープール1世、小姓がアルサケス朝の国王や臣下、従者を打ち倒している情景が描写されているが、その武器は長槍である(Hinz 1969,pls.51-55; von Gall 1990,pls.5-8,fig.3)。
p.190
たとえばインド・パルティア朝のアブダガゼス2世(Abdagases,1世紀後半)が発行した金貨の表(図61)には、矢を手にした国王の胸像が刻印されている(Grenet/Bopearachchi 1996,fig.2)。この矢は明らかにアルサケス朝の銀貨裏面に刻印されたアルサケス倚像(図60-2)の持つ合弓と同じく、パルティア系の軽騎兵の主要武器を意味していよう。この様な伝統は、クシャン朝のウェーマ・タクトゥー王(Wema-Taktoないしウェーマタクシュマ(Wema-Taksuma)、いわゆるソーテール・メガース=Soter Megas、偉大な救済者という称号を銘とした、在位1世紀後半)の銅貨に刻印された国王胸像(図62)にも継承されている(Sims-Williams/Cribb 1996/96,figs.11-12)。
p.191
しかしながら、ウェーマ・タクトゥーの次の国王ウェーマ・カドフィセス(図102)、カニシュカ1世(図103)、フヴィシュカ王、ヴァースデーヴァ1世(図104)、ヴァースデーヴァ2世(図105)のコインの国王肖像(1世紀後半〜3世紀前半)ではもはや弓矢は用いられておらず、それに代わって三叉戟が武器となっている。…しかしながら、毘沙門天像の創造は明らかにクシャン朝の盛期に行われたものであるから、毘沙門天の武器たる弓矢は明らかに当時のクシャン族王侯の典型的武器にそぐわず、上述した軍事史的な変遷にも矛盾している(Tanabe 2000a,pp.119-123)。しかしながら、このような矛盾は寧ろ、毘沙門天の武器(弓矢)が既述したように、単なる武器ではなく暗い夜道を照らす、暗黒に光明を投じるという象徴的意味故に用いられていたと解釈することによって解決されよう(第7章4を参照)。
堅実女子のみなさんは、仏像に興味ありますか?
かつては若い女性に見向きもされなかった分野ですが、ここ数年は仏像に興味を持つ人が増えているといいます。いわゆる仏像ブームが本格化したのは、「国宝 阿修羅展」が開催された2009年。東京では94万6172人、九州では71万138人が来場し、入場までに1時時間以上の行列が続いたことが話題になりました。それから10年以上が経過した現在、仏像に対する興味はどのように変化しているのでしょうか?
若い世代の仏像ブームは本物だった!
株式会社鵬盛商事では、全国の男女1,000名を対象に「仏像に関する意識調査」を実施。こちらによると、現在仏像に「興味がある」「どちらかというと興味はある」と答えた人は全体の36.4%だそう。年代別に集計した結果は以下となります。
若い世代は、興味がある層とない層がはっきり分かれているのが特徴です。
「興味がある」「どちらかというと興味はある」を合わせた数値の割合は、どの年代でもそれほど大きな差はないようです。しかし「興味がある」をみると、20代と30代の若い層が多い傾向にあることが分かります。やはり今の若い世代は仏像好きが多く、仏像ブームはまだまだ継続中といっていいでしょう。ちなみに仏像を実際に所有している人は、全体の23.1%。仏像の価格は一般的なインテリア雑貨よりも高価なものが多いことを考えると、なかなかの所有率といえそうです。
20代は「韋駄天」、30代は「毘沙門天」……年代によって異なる好きな仏像
では仏像に興味がある人は、実際にどんな仏像を好んでいるのでしょうか?株式会社鵬盛商事による調査結果は以下の通りとなりました。
仏像は「如来」「菩薩」「明王」「天」といった種類があり、格の違いがあるそうですが、格が高いから好まれるといったわけではないようです。
見事に1位に輝いたのは「弥勒菩薩」(34.3%)!お釈迦様の後継者となることが約束された菩薩で、釈迦が亡くなった56億7千万年後に仏となってこの世に現れ、釈迦の教えで救われなかった人々を救済するといわれています。
ほかにも、年代別にそれぞれ「好きな仏像」を調査しています。仏像に強い興味を持つ人が多い20代と30代は、どんな仏様を好むのでしょうか?それぞれの上位ランキングをご紹介します。
20代が好きな仏像ランキング
1位 韋駄天……29.7%
2位 帝釈天……28.4%
3位 梵天……24.3%
4位 吉祥天……23.0%
5位 毘沙門天……20.3%
20代がいちばん好きなのは「韋駄天」!ヒンドゥー教の軍神・スカンダが前身で、仏教に入ってからは四天王・増長天に従う八大将軍の1人として、仏法を護る守護神として信仰されています。続いて30代のランキングはこちら。
30代が好きな仏像ランキング
1位 毘沙門天……34.8%
2位 不動明王……31.9%
3位 弥勒菩薩……29.0%
4位 帝釈天……26.1%
5位 大黒天……24.6%
20代とは大きく違う結果となり、こちらの1位は「毘沙門天」に。インド神話での財宝神・クベーラが前身で、中国に伝わる過程で武神としての信仰が生まれ、四天王の一尊とされるようになりました。日本で有名な七福神の一尊でもあります。
インテリアとしての仏像も注目されているようです。
ちなみに総合1位となった「弥勒菩薩」は、50代と60代でそれぞれ1位。こうしてみると、年代により好む仏像がかなり違うのが興味深いところです。知れば奥深いこの世界。興味がある人はぜひ、寺院に足を運んでみてはいかがでしょうか?
【調査概要】
調査主体:株式会社鵬盛商事「RIYAK」
有効回答数:全国の男女1,000名(20代:200名、30代:200名、40代:200名、50代:200名、60代:200名)
調査期間:2019年10月18日〜2019年10月25日
調査方法:インターネットリサーチ調べ
2025年08月19日10:46
2025年08月13日23:28
2025年08月08日17:33
2025年08月06日11:11
2025年07月31日16:11
ログインしてコメントを確認・投稿する