武士の起源というと、地方とりわけ関東の有力農民が自分の領地を守るために武器を取って立ち上がった、というイメージが強いです。現行の日本史教科書でも、「9世紀末から10世紀にかけて地方政治が大きく変化していく中で、地方豪族や有力農民は、勢力を維持・拡大するために武装するようになり、各地で紛争が発生した」と書かれています。
これは近代の帝国日本の国家主義的政策ともよく合致する歴史像であり、マルクス史学の言う、悪しき古代を克服して忠世の段階に「発展」したいという史観とも都合よく組み合わされたことから、ほとんど常識的な構図として国民に浸透してしまいました。石母田正氏の『中世的世界の形成』などで確立した、いわゆる「在地領 主正論」です。
1980年代になると、中世史の研究者を中心に武士論が盛んになりました。10世紀から11世紀にかけての平将門の乱、藤原純友の乱、平忠常の乱、前9年合戦、あと3年合戦などを見ると、初期の「武家の棟梁」とされる人々は藤原氏や清和源氏、桓武平氏などの出身で貴族の血筋を引き、地方に勢力を持ちながらも完全には土着していません。
官職や邸宅など都にも基盤を置いて、武士の暴力団的性格や穢れとしての存在、また貴族志向の強さ、芸能的側面などが明らかになってきています。さらには、「武家の棟梁」といいながらも、彼らに常に従属する兵力は非常に少なかったといいます。
例えば平将門の乱を起こした際、その私兵というべき兵力はほとんどなく、多くは個人的な契約関係による傭兵的な伴類でした。12世紀の源平合戦においても、双方の兵力はほとんど国族の指揮下にあるものだったことが明らかになっています。つまり、平安時代に武士はまだ「棟梁」といえる段階にはなく、「軍事貴族」だったと考えられるのです。
平安時代の軍事貴族は、代々軍事に携わり、中央で官職を持ち、受領に任じられることもありました。彼らは、将門の乱や純友の乱を鎮圧する際に功績を立てた、藤原秀郷、平貞盛、源経基といった「天慶勲功者」の子孫が多いのです。
武士たちも、京都の宮廷社会の中で検非違使や受領を歴任することを目指し、その一方では摂関家など有力権門の家人になって身辺警護や受領としての奉仕に努めるなど密着を強めています。
例えば源経基の子と孫にあたる満仲、頼光・頼親や、平貞盛の子である維衡は藤原道長の『御堂関白記』や藤原実資の『小右記』など貴族の日記にもよく登場しています。まさに「侍ひ」でした。
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