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2020年08月28日08:25

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リアルタイムで大林宜彦を追い続けられた至福。「糸」で平成を想う。

8月19日(水)

kino cinema 立川高島屋S.C.館

「海辺の映画館−キネマの玉手箱」(大林宜彦)

 大林宜彦の「遺作」にふさわしい約3時間の巨編である。

 実は「遺作にふさわしい」と称したが、元々「遺作」なるものは結果的に後から誕生するものなのだ。確かに、これが遺作だと宣言して発表される映画は少なくない。ただ、プロレスラーの引退と同様で、これが守られたことはあまりない。ベルイマン然り、宮崎駿も然りだ。目下それを忠実に遵守しているのは篠田正浩くらいか。

 ただ、大林宜彦は平成28年8月に、癌診断で余命半年を宣告された。その後、「花筺/HANAGATAMI」「海辺の映画館−キネマの玉手箱」の2本の作品を残し、残念ながら旅立ってしまったが、余命宣告された以降には、「癌になんて殺されてたまるか!」と啖呵を切り生き抜いてきたにせよ、「遺作」という意識は常に年頭にあったであろう。

 映画は、尾道の閉館する映画館が舞台で、最後の興行としてオールナイト「日本の戦争映画大特集」が開催される。そこに、3人の若者が来場し、いつしか映画の中に入り込んでしまい、映画中のミューズの運命を変えて救おうと悪戦苦闘する。

 いや、そんなストーリー展開を追ってみても、何の意味もない。映画は、そこを題材にして、スピーディーなカット割りとあらゆる映画技術を駆使した大林ファンタスティックワールドを、脈絡などもあえて無視し、これが「遺作」の覚悟と見えんばかりに、絢爛と展開させていく。

 基本を為すのは「映画愛」だ。サイレント、トーキー、アクション、ミュージカルetcと、過去の映画史への蘊蓄とオマージュが、果てしなく綴られていく。

 それに加えて、全編を貫くのは、大林監督の反戦への強い願いと祈りである。新選組内紛に端を発し、戊辰・日中・沖縄戦から原爆投下まで、映画中映画と共に、戦争のもたらす悲劇が、徹底的に謳い上げられる。

 これは、心が赴くままの大林宜彦のイメージの奔流である。大林版「8 1/2」であり「千と千尋の神隠し」であると言えよう。当然ながら当初契約の2時間が3時間に膨らんでしまったのは必然だ。

 これを妥当とするかどうかは、意見が分かれると思う。冗長と感じる人も出そうだ。ただ、私は長さを感じなかった。最近の映画には珍しく、この映画にはインターミッション・タイトルが出る。もちろん、「トイレ時間ですが、今の映画館のトイレは臭くない」とかの意味の、よく判らないナレーションで、そのまま上映は継続する。ここで、やっと半分あたりということだが、この時、「まだこの後、半分もあるのかよ」とウンザリするか、「まだ後、半分も楽しめるのか!」と欣喜雀躍するかで、この映画の評価は分かれるだろう。私はもちろん後者だった。

 でも、本音を言うと、ここは本当にインターミッションを挟んでほしかった。最近の日本の映画館は3時間前後でも、なぜインターミッションを入れないのだろう。インド映画などではっきりインターミッションタイトルがあっても、連続して廻して(フィルムでないからこの表現は適切でないか)しまう。インターミッションは、後半に対する期待、作品の重量感にも効果的だし、何はさておき、人間の生理に合っているから、断固必要と思うのだが!。

 余談だが、5時間超の長尺「ファニーとアレクサンデル」の前半3時間でインターミッションが入った時、私は「まだ2時間も観られる!と感動に震えたことを、この時思い出した。この時、私は38歳、まだ、青年のように映画に感銘できる感性が残っていた自分自身にも、ヘンな話であるが、感動していた。

 ただ、ここで断っておきたいのは、大林宜彦を生涯の反戦作家であるとするのは、一般的な誤解である。大林監督が反戦意識に強く目覚めたのは、「この空の花−長岡花火物語」以降であり、これは平成26年作品で癌宣告前ではあるにせよ、そろそろ死を意識する年代である。やはり、最後には戦争を意識する世代ということだ。

 同様の一般的誤解があるのが、黒木和雄監督である。黒木和雄が強く反戦意識の強い映画創作を始めたのは、晩年の「美しい夏キリシマ」以降であり、私としては「とべない沈黙」を長編デビュー作とする奔放な映画世界を有する映画作家として認識している。

 しかし、「遺作」への意気込みと関係なく、大林宜彦の長尺志向というのは、作家的特性として顕著だ。「ふたり」2時間35分、はるか、ノスタルジィ」2時間45分、「あした」2時間21分etc…。いずれも壮大な社会的テーマの大作でなく、軽やかなファンタジーなのだが、それでもこの長尺だ。でも、少なくとも私には、冗長にも退屈にも観えないところが、優れた資質だと思う。

 思えば「EMOTION=伝説の午後・いつか見たドラキュラ」のアングラ上映会で大林作品に出会い、今、遺作「海辺の映画館−キネマの玉手箱」に立ち会う。映画ファンとしてリアルタイムでそんな大林宜彦と出会い続けたられたのは、私としても、良い映画ファン人生だったことを痛感する。

 そして、映画作家・大林宜彦としては、もっと豊かな映画人生だったのではなかったろうか。映画技術を駆使した奔放なカット割りは全く終生変わることなく、短編自主映画でスタートし、商業主義作家として大長編をモノできるまでの地位を確立・成長し、その映画精神を貫けたまま、ここに遺作を迎えた。最後に「いつか見たドラキュラ」の言葉の1節を紹介して、この作品完走を〆たい。(細部の語彙は不正確だと思うが…)

「人はいつまでも夢を見ているわけにはいかない。でも夢見る心を失ってはいけない」(よかった。ベストテン級)


立川シネマシティ
「今日から俺は!! 劇場版」(福田雄一)
正直言って、私には全くノーマークの映画だった。ところが、このコロナ禍で興行界に逆風吹く中で、「50億円突破がねらえる」大ヒットだと耳にした。コロナ自粛がなければ、100億越えの超大ヒットではないか。(もっともコロナ中だから、こんな映画で馬鹿笑いしたいとの映画ファン心情があるのかもしれないが…)でも、これでスルーできなくなり、観ることを決意した。高校生ツッパリ物というのは、戦後のある時期から日本映画の定番となって、コンスタントに創られているが、そこはオ馬鹿映画の達人福田雄一、確かに一味ちがった。これまでのツッパリ物は男の子の狂暴さの中にあるカッコ良さを目指していたが、今回はピント外れのスケバンの介入・活躍ぶりや、ユル〜い親達の存在など、福田流満開の、ズッこけた可笑しさに溢れている。「HK 変態仮面」「銀魂」「聖☆おにいさん」のタッチの延長といえば、想像つくだろう。このタッチ、私は嫌いじゃないが、決して真面目な人は観ないでください。怒り出しても、責任持てません。同じオ馬鹿映画でも武内英樹には、まだまだそこそこ意味があったが、福田映画の無意味さはある意味スゴい。むしろ河崎実に近いかもしれない。惜しむらくは、終盤の展開がこれまでのツッパリ物と同工異曲になってしまったことだ。(まあまあ)


8月20日  UPLINK吉祥寺
「ぶあいそうな手紙」(アナ・ルイーザ・アゼヴェード)
視力を失いつつある男ヤモメの独居老人に、親友の妻から彼が逝去したとの手紙が届くが読めない。そこで23歳の娘が手紙の読み書きを頼まれる。そこからスタートするロマンチックなハッピーエンド。昔、青春映画を観た時に、俺にもこんなことあったらいいな、いやありそうだなと、思いを馳せたこともあったが、老人を題材にしたこの映画で、こんな類似の想いを抱かせられるとは思わなかった。ただ、私はこの主人公と同じ選択肢は取れなかった…なんて、意味シンな表現になってしまったが、プライベートに関連するその想いを記すとネタバレになってしまうので、ミステリーではないのだけれど、内容はチラシのキャッチ程度の紹介に止め、詳細の感想は割愛したい。(よかった)


 揶揄された形で話題となったアベノマスクだが、私は愛用している。元来マスク習慣の無い私は、同調圧力もあって(おいおい高齢者だから予防優先だろ)、仕方なく娘の使い捨てマスクにたかっていたが、コロナ禍長期化でそうもいかなくなってきたところで、一所帯2枚の配布はありがたかった。(もちろん娘は歯牙にもかけず、2枚を私が独占)

 不思議なのは、市中で私以外のアベノマスク着用は、全く目にしたことがないことだ。1億枚は配布されているのにも関わらずで、これはちょっとシュールな光景ではなかろうか。ファッションとして「アベノマスクですか?」と雑談のきっかけにもなり、これはこれで悪くないですよ。


8月23日(日)  ポレポレ東中野
「なぜ君は総理大臣になれないのか」(大島新)
無所属ながら、一部で話題を集めている代議士・小川淳也を、2003年から追い続けた重量感が溢れるドキュメンタリー。東大から自治省(現総務省)に入省したエリートながら、役所の保守体質を覆しリードできる真の政治家を目指して転身。この出発点から追い続けた監督の息の長さには目を瞠る。民主党への政権交代から転落、希望の党の介入から解党で現在に至る。そこに、「悪夢のような民主党政権」の一言では済まない闇の深さを感じ、アメリカのトランプ政権誕生も影を落とす。小川淳也を軸に観せたこの政治認識は鋭い。コロナ以後のリーダーの在り方への期待と不安が混濁する今年の5月で締めくくるが、公開は直後の6月、このリアルな記録は、後年の眼にどう映るだろう。この対象を追い続けてほしいとも思う。大島新は父の大島渚とはまた違う才能であることを、期待させた。(よかった。ベストテン級)


8月26日(水)  立川シネマシティ

「2分の1の魔法」(ダン・スキャンロン)
魔法が力を失いつつある妖精やユニコーンetcが跋扈の不思議な街が舞台。死んだ父親を24時間だけ復活させる魔法を失敗して、半身しか出現させられなくなった兄弟が、何とかタイムリミットまでに全身出現させようと苦闘するアドベンチャーロードムービー。ファンタスティックロジックは、良く言えば自由奔放、悪く言えば行き当たりバッタリ。ディズニーアニメで言えば「ふしぎの国のアリス」の系列だが、私の好きなタイプだ。ただ、兄弟のキャラも含め、ビジュアル全体が私の趣味ではない。やっぱり、アニメはキャラですね。二人の母親は、熟年女性のキュートさと色気を醸して良かったが、そのサブキャラに最も魅力を感じたあたりに、私とこの映画の相性が象徴的に示されている。(まあまあ)

「ポルトガル、夏の終わり」(アイラ・サックス)
アメリカの大女優が、ポルトガルの避暑地で世界遺産の町シントラに、家族・親族・友人・知人を招待する。裏には別の思惑があり、中盤でそれが明かされるから(チラシでも仄めかされているし)、ネタバレという程でも無いが、ここでは伏せておこう。その意図とは関係なく、避暑地の生活を通し、夫婦・母子・恋人の心情が、きめ細かく浮彫にされていく群像劇。男女関係に淡白(?)な私でなければ、大感動する人も少なくないだろう。避暑地の風光明媚、特にエンディングのロング長回しは胸に迫る。(まあまあ)

「糸」(瀬々敬久)
平成元年生まれの男女の、平成31年までに至る「君の名は」を思わせるすれ違いの大河メロドラマ・ラブロマンス。「平凡な人々の平凡な長い人生、そこに真のドラマがある」と言った意味のことを語り称えたのは木下恵介で、「二十四の瞳」「喜びと悲しみも幾年月」「二人で歩いた幾春秋」と枚挙にいとまが無いが、激動の昭和を生き抜いた庶民というテーマは、朝の連続TV小説をはじめ、日本ドラマの一ジャンルを占めていた。でも、平成となるとその手のドラマは薄かったが、ここに初めてと言える平成・平凡・庶民ドラマが誕生した。確かにこの映画の男女のドラマは、「平凡」と言い難いかもしれないが、DV・子供虐待・離婚日常化・終身雇用と年功序列の崩壊・起業ブームと激しい浮き沈み・それに絡む国際化への拡大と、平成の背景の中から鑑みると、この主要キャラはある意味「平凡」と言える気がする。昭和は時代が激動で、平凡な庶民はその中で翻弄されたとも言え、私などは平成にのっぺらぼうの印象しかなかったが、平成庶民も逆の意味で激動だったと言えるのかもしれない。瀬々敬久の職人仕事かもしれないが、この大河メロドラマの日本映画史的意味は、意外と大きいかもしれないと思った。(よかった。ベストテン級)

「糸」をあえて「ベストテン級」と評したが、私なりの思い入れもある。私は、最初から最後まで平成を生き抜いた。しかし令和は歳から考えて、最後は見届けられまい。いや、本来は年号は人為的区切りでしかなく、そんな事はあまり意味が無いが、「平成」と「令和」に関しては、決定的に違う。

 今、令和2年。でも、新年を令和に迎えた最初の年であるから、ここが実質的元年である。平成とは、はっきり状況が違う。御存じのように世界的コロナ禍だ。社会の実態は完全に変貌している。令和は平成の続きではない。その令和を、私は多分終焉まで見届けられない。令和のこの時代が、収束して基に戻るのは、数年か?10年単位か?、その前に私は生存(コロナ禍も含めて)していられるのか?

「令和」は確実に「平成」の延長ではない。そんな思いで「糸」をあえて「ベストテン級」としたい。末席10位の位置付け固定といった感じであろう。(ただ、キネ旬基準では昨年末「男はつらいよ 50 お帰り 寅さん」があり、同ポジションであるのが悩ましいところではある)


 ここまでの私の今年のスクリーン初鑑賞作品は109本。

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