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2020年07月01日16:53

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6月が終わった。様々な思いがめぐる。

6月24日(水)    kino cinema 立川高島屋S.C.館
「ペイン・アンド・グローリー」(ペドロ・アルマドバル)
アルマドバル版「8 1/2」といったところ。初老の監督が我が人生を多面的に回顧する。アクションスターのアントニオ・バンデラスが、カンヌ主演男優賞も当然の、見違えるような渋い監督のモデルを名演。昔に仲違いした主演男優との和解、それをきっかけにしての遠い昔の男性パートナーとの再会。今は亡き母への思慕と、孝行を尽くせなかった後悔(若き日の母を演ずるはラテンの名花ペネロペ・クルス特出!)。それらが、原色の奔放な映像美にアニメも交えて絢爛と展開される。幼い頃に覗いたタイル職人のお兄さんの、水浴びヌードの艶めかしさ(ショックで発熱?)。一方、同年代の秘書の女性との穏やかな関係には、恋模様のカケラも匂わないのは、いかにもアルマドバルだ。でも、この濃〜いラテン系の情熱の迸りは、お茶漬けサラサラの日本人の私には、やはり苦手だ。(まあまあ)

6月25日(木)  UPLINK吉祥寺
「ホドロフスキーのサイコマジック」(アレハンドロ・ホドロフスキー)
ホドロフスキーのアートとしてのアプローチから生まれたセラピーの実績のドキュメントであり、その実践の一環としての過去作の数々がコラージュされる。私の見るところ、要は「病は気から」ってこと。と言ってしまえば実も蓋もないが、理屈ではなくホドロフスキー映画の魅惑の映像の原点として、共感はできた。過去は変えられないという凡な常識を覆し、「エンドレス・ポエトリー」では、過去なんて「事実」が厳としてあるだけのみ、それをどう捉えるかの心の在り方で可塑性に富んだ存在であるとしたのを、私は全面的に支持した。鬱の老女を古木を通して、宇宙存在との一体化を示唆することで治癒させるのも、老境を迎えた私の感性とピッタリだった。(よかった)

「ペイン・アンド・グローリー」「ホドロフスキーのサイコマジック」と、裸体が堂々と映し出されるショットがあるが、ヘンなボカしが一切無いのが潔い。女性のヘアーに関しては、日本はかなり解禁されているが、男根に関してのハードルは、これまで高いものがあった。

 生身の肉体を映像でさらけ出すのに、大きな意味を持たせる映画は少なくないが、ヘンなボカしは嫌らしさを助長させ、表現を歪めてしまう。「私は好奇心の強い女」「愛のコリーダ」(完全版と称した物も含め)等はその典型だ。

 アルマドバルは私よりやや年下、ホドロフスキーは91歳、いずれにしても私と同様、老境なのはまちがいない。この頃になると、精神的欲情は変わらないにしても、肉体的欲望の衰退は否めない。だから、肉体というものを、妙に客観的に見られる視点も出てくる。

 最近、冷静に見て、女体って男にとって凶器だなぁと、つくづく思う。唇・胸・股間・尻・太腿、体全体が刺激的な存在だ。老境に入ると、それを精神的欲情と肉体的欲望をうまくバランスを取って眺めることができる。

 ホドロフスキーの視点は、完全にその域に到達している。私も思うのだが、女も男も、肉体って奇妙なものだなあとの思いにも至る。でも、その肉体があるから、子孫か続き、人の生活も延々と継続し、人の心のありようまでも制御していく。「ホドロフスキーのサイコマジック」に見られるセラピーで、裸体を絡み合わさせたり、経血で自画像を描かせたりする等に、そんな境地を感じた。


6月26日(金)  ユーロライブ  浪曲映画祭−情念の美学
「忠臣蔵 暁の陣太鼓」(倉橋良介)
忠臣蔵と銘打ってはいるが、これは義士の一人の中山→堀部安兵衛の一代記。理不尽に藩を追放され、飲んべ安・喧嘩安と退廃的にのめり込み、伯父が惨殺されたのをきっかけに武士道に目覚め、生涯に二度の仇討ちを果たした「御存じ」の一生が綴られる。演じるは森美樹。思い出しました。かつての松竹にこんな素敵な長身の精悍な二枚目がいたんですねえ。そこにフィクションの鉄火女の純情を絡ませ、それを最も奇麗だった頃の嵯峨三智子が演じる。これも、架空の人物だが、俵星玄蕃が脇を固める。俵星という存在は忠臣蔵外伝中の魅力的な人物の一人。「血槍無双」では東映の御大の片岡千恵藏が、「忠臣蔵 花の巻 雪の巻」では三船敏郎が、それぞれ豪快に演じた。今作で演じるは近衛十四郎。特出的チョイ役ながら、討ち入りの陣太鼓を背景に、助勢に駆け付けた上杉家の家臣軍を見事な槍捌きで撃退する。安兵衛の討ち入り大活躍とのカットバックは、満腹感タップリ。それにしても、高田馬場十八人斬り、討ち入り、引き揚げetcと、メークと衣装をキッチリつけた町人群衆も含め、おびただしい数のエキストラ(というか大部屋役者だろう、全員の型ができている)に圧倒される。こんなに金かけてどうすんの、というスケールだが撮影所システム全盛期の映画黄金時代では、これが普通サイズだったのだ。(よかった)

 本来はこの映画、当時の水準作で「まあまあ」レベルなのだが、この日に輝いて見えたのは、上映前の浪曲口演、玉川奈々福「義士銘々伝−俵星玄蕃」とのコラボ効果が預かって大きかった。終映後、大拍手が爆発したのは、完全にコラボ効果だ。

 映画は複製芸術でありながら、劇場芸術である。ところがここ何年かで、その原則が揺らぎつつある。複製芸術の映画が、劇場芸術である必然性はあるのだろうか。そう、Netflixの登場である。

 オールドファンはのたまわる。「いやいや、大スクリーンで観てこそ映画でしょ」しかし、今や金に糸目をつけなければ、劇場顔負けのプロジェクタは自宅に整備できる。

 オールドファンはさらにのたまわる。「見ず知らずの人々が、同じ空間で感動を共有してこそ、映画ではないか」しかし、最近はそんな見ず知らずの人が集まる場所に、鬱陶しさを感じる若者も少なくないという。

 ここまでくると、映画は他のライブと違って、わざわざ足を運ぶ劇場芸術でなければならぬ必然性は、全く無いと言ってよい。「映画は劇場芸術」というのは、我々に長い間に刷り込まれた思い込みに過ぎないのかもしれない。

 最後に残る劇場芸術として必然性ある映画は、生演奏・弁士付のカツベン上映しか無いのではないか。複製芸術+ライブという形で、特殊なものだけが残るしかない。

 この傾向に新型コロナウイルス禍は、トドメを指すかもしれない。国分寺在住の私は、今、立川・吉祥寺より先に足を延ばす気になれない。映画館そのものは空席を開けてチケット販売しているし、立川・吉祥寺あたりはそれでも客入りは悪く、もはや映画館は人混みとはいえない。問題なのは劇場まで足を運ぶ公共交通機関内の方である。

 今回、渋谷まで足を延ばしたのは、浪曲とのコラボだったことが大きい。こんな形で、私も劇場からどんどん遠のき、配信主体でもいいかな、と舵を切り替えていくのかもしれない。でも、私にとってそれはもう映画とは別のものだろう。ま、そう長く生きているはずもなく、2020年は私にとっての映画の終焉という気がしないでもない。

 それやこれや、6月が終わり、とにかく1年の半分が終わった。ここまでで私のスクリーン初鑑賞作品はたったの(あくまでも私の感覚)71本。ベストテン候補の変動も3月末以降なし。

 6月の万歩計累計280,390歩(日平均9,346歩)
 歩数から鑑みて、私も日常を戻しつつある。新型コロナウイルスは、首都圏以外は、ほとんど局地的で封じ込んだ感が強い。でも、逆に首都圏は、ある意味で爆発的拡大とのようでもあり、単に検査件数が増えただけの結果みたいでもあり、ホントのところが全く見えないので、高齢者には恐怖だ。「感染者」という刺激的な表現やめませんか。感染判明者とか感染発覚者というのが妥当な気もする。それに基づいた分析結果がもっと欲しい。

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