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2020年03月17日16:10

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エンドレスになりそうな「Fukushima 50 フクシマフィフィティ」に思うこと。

3月10日(火)  上野オークラ劇場
「はめ堕ち淫行 猥褻なきずな」(山内大輔)
「プロのヒモ」を名乗る奇妙なオッサン森羅万象。突然、おかしなことを初対面の若い女達に話しかけ、でも、なぜか憎めぬ存在で、3人の女性と次々スンナリとヒモ関係に至る。複数の女のヒモになるのが「プロ」で、一人の女のヒモにしかなれないのは「アマ」なんだそうだ。取り得はSEX技術に異常に長けていることくらいである。土肥良成の特殊造形監修を得ての山内大輔流スプラッタの味付けも効いて、ヘンな説得力と魅力を持つ作品だ。こういうユニークなキャラは、あの人が演ったらどうなるだろうとの想像力を楽しませるものだが、本映画の「オッサン」に関しては、森羅万象以外は全く思い浮かばない。スゴい役者になったものだ。(よかった)


3月11日(水)  立川シネマシティ
「ジュディ 虹の彼方に」(ルパート・グールド)
普通の少女の生活に憧れながら、少女スターの愛らしさを維持するべく、薬物投与も含めた食事管理・生活管理を強いられる。それがトラウマとなり、華やかさだけを求めるファンへの憎悪からか、長じてはドラッグ中毒に陥り、母親らしさを求めながら、親権失格に追い込まれる。でも、それと裏腹に観客の喝采への渇望、その快感との板挟みにもなる。スターの栄光と悲惨、レネー・ゼルウィガーは強烈なまでに、それを表現した。ラストの「あの歌」の熱唱には、胸がいっぱいになること必定だ。(よかった)

 ここまでで私の今年のスクリーン初鑑賞作品は57本。


「Fukushima 50 フクシマフィフィティ」に思うこと。Vol.3

「作業員たちは日本人固有の精神性でもってそのポジションを選んだのではなく、極限的な状況から自己犠牲へと追い込まれたのだ」、キネ旬3月下旬号の「Fukushima 50」作品評内の一文である。ちょっとカチンと来た。電力マンの現場技術屋のド根性をナメんじゃネェ!と言いたくなった。プロというのはそんなもんじゃない。

 でも、私は日本人固有の精神性を称えるつもりはない。ウクライナ映画(フランスとポーランドの合作)「故郷よ」では、チェルノブイリで何かが起きているのを感じた発電所員が、家族に「当分戻れないかもしれない」と告げて、職場に向かうシーンがあった。(結局、帰ってこない)それでメシを喰っているプロというのは、万国共通にそういう責任感があるものだ。だから「追い込まれた」なんて言い捨てる人は、逆にその人のプロ意識なんてそんなもので、その程度の仕事しかしていないのかなと、感じざるを得ない。

 と偉そうに言ってみたが、私も電力マンになりたくてなったわけではなく、その道で47年もメシを喰いたくもなかった。最初からプロとしての責任感もあったわけではない。

 思春期あたりになると、将来は何になりたいという希望が、漠然と出てくる。東映のチャンバラに端を発し、映画好きになった私は、「映画評論家」になりたいと思ったものだ。

 私は早くに父を亡くした生活保護所帯の母子家庭に育った。だから3人兄弟の末っ子の私だが、全員が義務教育を終えたら就職しなければならなかった。母親の「夢みたいなこと言ってんじゃないよ」の一言で、映画評論家への道は、文字通り夢と消えた。でも、それ以前に私も「夢」としか認識していなかった。

 昭和38年のこの時代、私の育った下町千住では、高校進学は6割で、4割は義務教育を終えたら社会に出ていった。それ程に貧しい時代だったのだ。映画で言えば舞台は川口だが「キューポラのある街」が、その時代の雰囲気をよく表現している。

 ついでに言うと、6割の高校進学者が大学に進学したのは、さらに4割程度の時代である。でも、映画について語る人種の8割(あるいはそれ以上)は、大学卒の人間である。映画評の傾向というのは、ある種の偏たりがあるのは、否めないと私は感じている。

「キューポラのある街」で、加藤武の生徒の将来を親身になって案じる素晴らしい先生が登場するが、この時代にはかなりリアリティがあった。私の先生にも同様の人が少なくなかった。

 自分で言うのも何だが、偏差値なんてなかった時代だが、それがあれば多分私は高かろう成績を挙げていた。そういう貧しい生徒に対して、義務教育を終えて、工場勤めに入るのは忍びないと案ずる先生は多かった。収入を得ながら、学べる道を模索もしてくれた。

 貧しい時代だから、企業も社会的貢献も兼ねて、そういう場を開放していた。中学卒業生を、学びながら給与や教習手当も支給する場に受け入れ、卒業すると社員に採用するシステムである。石川島播磨工業高等学校をはじめ、印刷会社とか、機械靴の会社とか、自衛隊の少年工科学校とか、そんなシステムの学校がいくつもあった。その中の一つが私が入学した東電学園である。

 ただ、どれを選んでもまずは理系である。映画評論家の道とは果てしなく遠いが、私はおかげさまで複数校に合格し、東電を選んだ。最初は電力マンというと、電柱登りというイメージなので気が進まなかったが、変電所勤務というのもあることを知り、じゃあ造船工よりは電気屋がいいやと、適当に選んだ。中学生の進路選びなど、そんなものであろう。

 かくして昭和41年、学園を卒業し、私は電力マンのはしくれになり、変電所関係の勤務につくが、転機となったのが昭和46年、電力系統指令の仕事に着くことになったことである。

 電力系統指令とは、一言に説明し難いが、とりあえず発変電所と送電線全体を、一つのシステムとして捉え、そこを的確に無停電で運用するために、各事業所に指令を発する仕事である。詳細は、これからおいおい「Fukushima 50」にからめて、語ることになると思う。

 電力マンとしての生きがいを感じ出したのは、この頃だろうが、決して好きなわけではない。どうせメシのタネなら「好きだ」と無理にでも思い込もうとしたきらいは無いでもない。大好きな映画に24時間使えたら、そっちの方が夢なのはまぎれもない。

 そんな時、「読者の映画評」を通じて、当時のキネマ旬報編集長の白井佳夫さんに出会い、一瞬「夢」を見させてくれた瞬間が来る。

 こんな調子で記していくとキリがないですねぇ。ここまでの3回でも、「Fukushima 50」に絡めて言いたいことの1/10も言っていない。このコーナーはエンドレスになりそうだ。年内いっぱいで終わりそうもなさそうだが、我が一生の総括にもなりそうだから、致し方あるまい。死ぬまでに書き終えるかな?(笑)とりあえずVo3はここまでとしておきたい。

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