吉田茂の選択から欠落したものがあるとすれば、何であろうか。一般的にはサンフランシスコ講和は「単独講和」か、「全面講和」かと、米ソ冷戦の図式と重ねて語られています。その一方、今日から見るとサンフランシスコ講和からアジアが欠落したことが、大きな影響を残したように思われます。
講和会議には、米英の意見が対立して中華民国も中華人民共和国にもまねからず、韓国は、上海に存在した亡命政権が対日戦争に加わっとして講和会議に参加を主張したものの、これが植民地独立に際しての前例になる事を懸念したイギリスが反対して実現しなかった。
また、中立主義だったインドやビルマは講和が日本安保とセットになったことなどを批判して参加を見送りました。アジア諸国の多くが講和会議に参加しなかったことによって、戦争中に日本に蹂躙されたアジアの肉声は聞こえづらいものとなったのです。
当初、米英は対日無賠償を掲げましたが、講和会議に参加し、最大の戦争被害国の一つであったフィリピンの強い主張によって日本軍に直接占領された国は賠償を請求できるとされたのです。とはいえ、それは日本経済再建の負担にならない範囲でという条件付きです。
他方、そもそも日本国内では、日本が東南アジアで戦争した相手は欧米の宗王国であって、東南アジア諸国に賠償すること自体がおかしいという議論が根強かったのです。そこには敗北に終わったものの、大東亜戦争にはアジア開放という大義があったはずだからです。
そのような感情は白人の奴隷とされていたアジアの人々には潜んでいたのでしょう。呼応した国内の声を抑えるために日本政府は、賠償は日本企業再建出のための投資だと強調し、戦争に対する償いであるという意識はさらに薄らぐことになりました。
金額や支配方法によって賠償が軽減されたことは、戦後日本の早期復興を可能にしました。しかし、それはアジアの戦争被害国の「赦し」によるものではなく、冷戦下で日本再建を重視する米英が主導したものでした。この「ねじれ」が、冷戦後に歴史認識問題が浮上する下地をつくってしまったと思うのです。
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