トリックが存在する厳密な意味の「推理作品」は、映像が地味になりがちだ。
理由は2つ。
1つめはトリックに関る理由で映像表現が制約されてしまう場合。
2つめは作り手の解釈と技量で原作がしかけたサプライズを再現できない場合だ。*1
監督はみずから用意したオリジナルのトリックによって、
脚本と映像を仕立て上げ、弱味を強味へかえる。
著名な推理作家ハーラン老人が館で謎の死をとげた。
わけあり家族は父親の財産分与へ期待する。
だが、ハーランが指定した受け取り人は赤の他人――老人の献身的な看護士マルタ。
混乱のなかで探偵ブノワ・ブランが死の真相を解き明かす。
作品のトリックは伝統的だがフェアだ。
監督は犯人をあかすまでに“きちんと”推理可能な情報を渡す。*2
そのあいだに「ウソをつくと嘔吐するマルタが犯人では?」
「だれがブランに依頼したのか?」と十分なツイストも用意する。
推理作品のトリックとは“幻”だ。
推理小説家の有栖川有栖は著作「除夜を歩く」の中でそう言及する。
物語上の特定の条件化でしか成立しえない“幻”は現実と比較できない。*3
なら“幻”をどう描くかでミステリの価値はきまる。
そのポイントにおいて本作の“幻”は映画向きで映像向きだ。*4
すとんとオチに納得できるだろう。
この理由は監督がトリックを設計し、同時に監督が映像の撮り手だからだ。
探偵に酔う探偵ダニエル・クレイグのひょうきんなブノワ・ブランもいいし、
続編制作も納得だ。
※1 理由は当たり前で「原作の作り手」と「映画の作り手」がことなるからだ。原作が小説といった文章先行のメディアだと(そうして大抵の推理作品がそうであるが)、「撮り手」は一から映像を設計しないとならない。なおかつ推理作品には「トリック」が存在する。映像への落し込みは、そのぶん通常の作品よりもむずかしい。
※2 観客はきちんと推理をすれば、全部といわないものの8割程度まで事件の真相を解明することができる。探偵(ブノワ・ブラン)よりも早くにだ。監督(ライアン・ジョンソン)は、その推理の材料をすべてしめす。
※3 よく推理作品の「トリック」の内容に後付けし「難癖」をつける人種がいるが「物語」は「物語」であって“現実”ではない。それゆえ後付けのロジックを持ち出す瞬間、あらゆるトリックは成立/否定されてしまうからだ。たとえば豪雨の影響で外界から遮断をされた館に4人の人間たちが閉じ込められた。そうして殺人事件が起る。4人のうちの2人が犯人。協力して標的を殺害するのが推理作品の「トリック」であった。ただ後付けを持ち出すと「トリック」以外の方法で標的を殺害することはいくらでもできてしまう。「豪雨以前に別の人物が館に隠れ潜み殺人を行う」や「豪雨が館の内部に影響をあたえ似た状況の事故で死亡した」としてもいい。そういう意味において「トリック」とは絶対になりえない。そもそも“現実”ではない。ゆえに“幻”なのだ。
※4 おそらく推理作品マニアならばトリックは物足りないはずだ(自分もふくめ)。だが、娯楽作品にはロジックやトリックより優先すべきものがある。それは「わかりやすさ」であり、キャラクターのおもしろさであり、物語の映像ばえ、かつ緩急だ。そういう意味で本作の塩梅はこのぐらいで丁度よい。
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