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2020年03月07日13:00

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無聊の慰め、「興聖寺」

 先月の集いでレクチャーのピッチが上がり始め、やっと現成公案の講読会らしくなったなと思っていた興聖寺での<坐禅と法話の集い「正法眼蔵」>、本日の集いは残念ながら延期となり、ガックリ! で、無聊を慰めるために雑文でも書こうかとPCの前に座っている。

 このところのこの集いで聞き齧った事共の中での疑問点を綴ってみようかと思ったり、はたまた、次年度聴講の予習として読み始めた平川彰さんの『八宗綱要』天台宗の章について綴ってみようか等々と思案投げ首なのだが、なかなか考えが纏まらない。
で、とりあえず今回は、なにかと厄介をかけている宇治の興聖寺について書いてみよう。

 宇治川の塔の島を挟んで平等院と対面するかのようにある仏徳山興聖寺は、道元禅師開山の曹洞宗僧侶の教育・育生を目指す修行道場の寺である(日本最古の坐禅専門道場とも伝えられている)。現在も若い僧達が修行に勤しんでいる(ここ半年ほどは数名の外国人修行僧も見受ける)ほかに、毎朝四時半からの暁天坐禅、隔週の日曜日坐禅会、月一度の坐禅と法話の集いなども、私奴ら一般に公開されていて自由に参加することが出来る。

 この興聖寺は、元来は道元さんが宋から帰国されて6年後の1233年に京都深草の地に開創されたのだが、江戸期(1645年)に至って淀城主の永井尚政公が現在の地に再興されたとか。しかし、開創十年ばかりの後の1243年、道元禅師以下弟子衆が北越の地に移って以降の深草の興聖寺がどうなったか定かな記録は残っていない。それは、道元禅の弘通(ぐずう:広く世に普及させること)を快く思わなかった比叡山勢力の存在、或いは深山幽谷の地での永平寺建立以降の歴史を重んじる曹洞宗門内部の考えなどが、微妙に影響した結果なのかも知れない。

 道元さんは中国宋から帰朝しいよいよ弘法救生(法を弘め衆生を救済すること)と思っていたが、実際に深草に興聖寺で活動を開始するまでには六年の歳月がたっている。この時期のことを道元さん自身は、雲遊萍寄(うんゆうひょうき:しばらく雲のごとく遊び、萍(うきくさ)の寄るように縁のあるところに身を寄せる)と言っている。
半世紀に及ぶ道元『正法眼蔵』研究で著名な仏教学者であり曹洞宗僧侶でもある水野 弥穂子さんは、次のように述べている。
そもそも伝教大師最澄さんの「大唐伝法沙門」との名乗りの向こうを張って、「入宋伝教沙門」と自ら号したくらいの道元さんだから、この六年の歳月の雲遊萍寄の背景には、それ相当の事情が隠されていると考えるべき。それは他でもない、比叡山の天台法華を信奉する人々との衝突だという。

 考えてみれば、「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と白河法皇を嘆かせた比叡山。古くは、大日能忍・栄西の達磨宗への停止奏請や法然・親鸞への念仏宗停止などなどの実績がある。「栄西のような妥協を全く考えなかったから窮地に立つのは火を見るより明らかだ」とまで、水野さんは強調していた(『道元禅師の人間像』より)。

 「うぅ〜ん、なるほどなあ。徒に見性を追い求めず、坐禅している姿そのものが仏であり、修行の中に悟りがあるという修証一等、只管打坐の禅を唱えた道元さんにも色々難しく悩ましい事態があったのだなあ」なんて、時節柄、冷え切った僧堂で隣単(僧堂でのとなりの座席)を慮って咳をするのもこらえていた。
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