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2020年02月23日08:00

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河原のかはたれ ver.1.1

河原のかはたれ

これは戯曲連作「風土と存在」第五十五番目の試みである





時 二〇二〇年春
場 府中是政橋下
人 さや
  ナギ
  アンジー
  のあ
  夏水
  祥子
  ひなた
  もえ





全員 遠く遠く海へとくだる古き川のほとりを歩き
果ての谷にたどり着くころ深海鮫は未来を夢む
振りあおぐ氷河はオリュンポスのごと
柔らかな夕陽は午後二時に落ち ah――
君と寝ましたまるで影だよキスもかなわず 嗚呼

散開。

さや 翔んで埼玉にね! 志木、出てこなかったんですよね! どうかと思いますよね! 志木だいじですよ志木! 地元だから言うんですけどね! え、志木知らない? あの引股の用水と、いろは樋と、柳瀬川と新河岸川と宗岡佃堤の輪住と、関根伸夫の空相のあの志木ですよ? ご存じない。ローカルすぎると。許せぬ。そこに直れ。いや嘘ですけど、みなさんアレですよ、こうね、多摩川ですけどねここ、こう目立つものにばっか気を取られてちゃアレですよ、早いハナシが、さっき小川渡ったでしょ? あれ何だと思います。孤丘座の去年のお芝居で、あっちの是政の町の公園で、二ヶ村用水のハナシやったじゃないですか。見てくださった方もかなりおられますよねー。あれホラ、ポンプで循環させてる人工の流れだったでしょ。つまり暗渠じゃなくて廃川、川跡だったんです。そして本当の流れは今あそこを流れてなくて、流路を直角に替えて、さっきの小川になって、田を潤わさずに直接多摩川に落ちてるんですねー。どーうです。「なさそうなところにこそあるのが歴史」です。今日、めでたく孤丘座最終回の解散公演ということで、とりま、いま一度あの去年のお芝居「孤立が丘」をおさらいしてから先に進んでみようかと、かように思いましてですね――
声 「違うだろ。
さや はい?
声 おまえ、台本と全然違うんだよっ。(ト、蓆を撥ねのけて登場)
さや すみません!
ナギ 硬いとこ寝てたらもうバキバキだよ、ここ片づけといて。
のあ あ、はい。
ナギ あんたね、あたしゃあんたのコーチでもなけりゃプロンプでもないんだ。
さや はい!
ナギ へたくそと思ってんだろ。
さや え。
ナギ プロンプの間、めっちゃ悪いって。
さや そんなことありません。
ナギ そんなことあるんだよ。
さや ないです。
ナギ あるね。
さや そんな…ていうかそもそもナギさんプロンプじゃありませんから。
智恵 じゃあトチんなよ研修生、プロンプされたくなかったら。
さや あー、はい!」――てな具合に始まったんです去年は。
のあ なるほどー。
アンジー あたしもいたな。
夏水 あたしもいたわ。
もえ あたしもいました。
のあ なにそれ仲良し?
ひなた 初演にはあたしもいました。
のあ あたしだけ新人?!
さや 初演か再演ご覧になった方は挙手を!
観客 (けっこう挙手)
角 てか出てたわ。
のあ え、どの役でですか?
角 今の偉そうな方。
ナギ すすみません…現実では偉くないんです…怖くないんです…。
祥子 そういわれてもナギちゃん目ぢからすごいからね。
ナギ あれは役作りで凶暴にやってるんで…。
夏水 普段はむしろ大人しいよね。
ナギ 大人しいです…お願い逃げないで…、
さや ナギさんはキャラ立っててすごいと思います。真似できないわ。
ナギ いやさやさんの方が真似は難しいというか。
さや え?
ナギ こういうとアレなんですけど、役作りとかとは次元が違うというか。
さや え、そうですか?
ナギ やってんのかやってないのか分かんないっていうか。
さや disられてる、もしかして。
ナギ いやいや、自然体すぎて役なのか本人なのか。
さや あ、それは目指しました。ゆうて素人なんで、ほとんど白紙で演劇始めたんで、普通に練習してたら経験値高い人に追いつけないってんで。
夏水 そんでできるからすごい。
祥子 いやなっちゃんもそのタイプやん。
夏水 え、そう? かな。
祥子 無自覚かよ。
アンジー みんな羨ましいわー!
のあ アンジーさんなんで羨ましがるの。
アンジー 天才肌じゃないからさーあたしは。
皆 どこが!
アンジー ぜんぜんですよ。SNSではキャラ作り込んで天才を装ってるだけだし。じっさいは見た通り、ガラッパチてかガハハおばはんみたいな人だし。いやいいんですそれで。演技は「待ち伏せ」なんで、待ち伏せで騙せれば成功。
のあ でも内容あるじゃん、書いてることとかに。
アンジー 内容あるのはのあさんでしょ!
のあ なことないよ。
アンジー なくないわ! 詩でしょあのツイ。
のあ 書き散らしてるだけだし。
アンジー だから書き散らしてるだけで詩になるのがね?…まあええわ、落ち込むからいいもう。
さや で、まあ、この四人で今日は一本作ろうっていう感じで。夏水さんとひなたさんともえさんはここでいちおうおしまいで。
三人 ハーイ。
ナギ お疲れ様です。
さや 祥子さんはすみませんシーンの準備を。
祥子 あい。皆さんあとで移動ありますんで。(河原へ)
夏水 なんかあったら適宜呼んで。
さや お願いします。
ひなた これから西部劇なんですよね。やばい出たい。
夏水 案外やりたがりだよね。
ひなた そうですよー、めっちゃそうですよ!
夏水 ガンマンて感じじゃないけどね…
ひなた そうなんですよねー、(引っ込む)
さや じゃ75'00"から。ツームストンの保安官詰所。椅子で待ってる敵方の郡保安官ウィルソン。帰ってくるワイアット・アープ。はい籤。

籤であたった役をその場でやるのである。

ワイアット 「ウィルソン、よく来た。すごい景気らしいな」
ウィルソン 「まあまあさ」
ワイアット 「用件は?」
ウィルソン 「勝蔵は協定をのぞ望んでいる。おとなしく川を渡るそうだ」
ワイアット 「ご立派だな」
ウィルソン 「いい男さ。すごい数の牛だ。何とか市場へ運ばんとな」
ワイアット 「そうか」
ウィルソン 「(乗り出して)君には2万ドル出す」
ワイアット 「2万か。近頃は汚職も値上がりだな」
ウィルソン 「いやなら墓場が丘だそうだ。年金はせいぜい月に20ドルだぜ」
ワイアット 「それも考えた。だがな――、ここで腰を落ち着けたい。郡保安官にでもなって」
ウィルソン 「いいさ、譲るよ。おれは牧場も買い、貯金も2万5千。しかも、夜はぐっすり眠れる」
ワイアット 「おれなら眠れない」
ウィルソン 「いい加減にしろ。女にも捨てられ、一生貧乏役人でいいのか、殺し屋ドク・ホリデイの相棒」
ワイアット 「…勝蔵に渡せ」(布告を渡す)
アンジー はい、ここで渡すのが、映画だとあれですね。(背後の壁の幕に大書きしてある)「FIREARMS ARE FORBIDDEN IN THE CITY OF "TOMBSTONE"」ツームストンは武器の持ち込み禁止と。丸腰で治安を守ろうとするアープ兄弟と、盗んだメキシコの牛を売り飛ばすために武装して町を突破しようとする黒駒勝蔵、じゃないクラントン勝蔵一家の闘いが本筋です。
のあ はい。
アンジー はい。
のあ ちょっと話が見えないんだけど。
アンジー だから平和主義の保安官と荒くれのカウボーイたちが対立して、
のあ じゃなくて、じゃなくてこの部分、全体にどう嵌まるのかなって。
アンジー どうとは。
のあ うないおとめのハナシにするんですよね。うちら、うないおとことちぬおとこやってくれって聞いてたんだけど。
ナギ それは、やります。あ、自分がうないおとめです。柄にもなくてアレですが。
のあ それとこれ西部劇、どう関係してくるのかなーって。
さや そこは、正直謎です。
のあ 謎なんだ!
さや たぶん、女子四人だから、これラスト四人で並んでざっざっと歩くとこの絵だけでやろうとしてない?
アンジー そこかあ!
さや たぶん。
のあ え、じゃ、主題とは当面関係なくていいってこと。
さや たぶん。
ナギ なんか、ウエスタンな服装に慣れとけみたいな?
さや たぶん。
アンジー 実はあたしも分かってないんだけどさ、これ大枠はどういう芝居にしようっての?
さや あーはい。そもそもはアイルランドのイエーツという劇作家? 詩人? の、「骨の夢」ていう一幕ものの戯曲を元にしてるみたいで、ざっくり言いますと、まずあたしが、一九一六年ダブリンのイースター蜂起で弾圧され、虐殺から逃れてやっと山に逃げ込んだ青年です。役名は「コンラ」になってます。
アンジー クフーリンの息子だ。
さや そうか! どっかで聞いたと思った。で、山に逃げ込んだコンラに、道案内みたいな亡霊チックな男女が現れるんです。これが、呪いを受けてて、愛し合ったまま死んだんだけど、お互い触れることができないっていうの。キスすらも永遠に。でよくよく聞くと、このふたりディアミードとダヴォーギラなんです。
のあ 誰…、
さや はしょりますよ。ディアミードは地元の豪族です。アンジーさん。
アンジー わしゃあ豪族じゃあ。
さや でもダヴォーギラとは、不義の恋なんです。
アンジー んなこた一向に構わん。
のあ 構わなくないわ。姦淫するなかれ。
さや そうしてダヴォーギラは悩んだ。
のあ よよよ。
さや 結局ディアミードを追い払うのがいいだろうと。
のあ 「私を大切に思うならここはいったん里を離れて」
アンジー 「ハニー、君がそう言うなら」
さや ではるばるイングランドまで逃げたはいいものの、異国の無聊、やがてブリテン王を語らって大軍率いて恋人奪還に来る。
ナギ (ヒゲつけて)わしゃあブリテン王の、
さや (ひそひそ)ヘンリー二世、
ナギ ヘンリー二世太郎じゃ。戸締まり用心火の用心、鬼ども覚悟、掛かれイヌサルキジ。
アンジー んがあ!
さや それが以後七〇〇年続くイングランドによるアイルランド支配の発端になったと。
のあ は? いやダメじゃん!
さや ダメなんです。だから煉獄で罰を受けてる、触れ合えない罰を。で、もしもアイルランド人の誰かひとりでも私たちを許すと言ってくれたなら、呪いは解けてやっと成仏できるのだと。
アンジー ここまで腹を割ってお話ししたのです。
のあ どうぞ、私どもを許すと言ってくださいまし。
さや ぜえっったい許さねえ!
のあんじー ええええ!
さや そりゃそうですやん。今まさにそのブリテンの騎兵隊に追いまくられて何十人もの仲間が殺されて命からがら逃げてきたのに、許せるか!
のあんじー そりゃそうだ。
さや ぜえっったい許さねえ! ぜええっったい許さねえ! と、三回罵ってこのお芝居は終わります。
アンジー オチは?
さや イエーツの芝居にオチなどはない!
のあ はい。
さや はい。
のあ ますますハナシが遠くなったんですけど…うないおとめは…、
さや ――あれ?
のあ あれちゃうわ。
ナギ 説明しよう。
のあ お。
ナギ 今のは。
のあ 今のは。
ナギ 関係ない説明だった。
のあ (ガックリ)
ナギ つまり骨の夢はさやさんの卒論で、うないをとめは自分の卒論なんです。
アンジー 四年ですもんねー。
さやナギ そうなんです…。(ずーん)

間。

アンジー なんだこのイヤな間は。
ナギ あしのやの うなひをとめの
やとせご(八年児)の かたおひ(片生)のときゆ
おはなり(小放髪)の かみ(髪)たくまでに
ならびおる いへにもみえず
うつゆふ(虚木綿)の こもりてませば
みてしかと いぶせむときの
かきほなす ひとのとふとき
ちぬをとこ うなひをとこの
ふせや(廬屋)たき すす(煤)しきほ(競)ひ
あひよばひ しけるときは
やきたち(焼太刀)の た(手)かみお(押)しねり
しらまゆい(白檀弓) ゆき(靫)とりおひて
みずにいり ひ(火)にもいらむと
たちむかひ きほ(競)ひしときに
芦原のうないおとめがまだ八つの時分から振り分けに髪を結うまで、隣の人にも姿を見せずに籠もっているので、多くの者が見たいものだと騒いでいる折、ちぬおとことうないおとこが伏屋に現れ、お互い得物を取って水の中火の中までもと争うものだから、おとめ母親に
「わたくしのようなつまらぬ者のためにあのように立派な方々が争うことには耐えられず、どうでも生きてはゆかれませぬ」
とて、隠沼(こもりぬ)にひとりくだって水に入り死んでしまった。残された男らのうちちぬおとこは夢見で、じつはおとめが愛していたのは自分だったと知り、たちまち後を追いました。さあ出遅れたうないおとこ、「あめあらぎ、さけびおらび、あしずりし、きか(牙噛)みたけびて」野郎に負けてはならじと小太刀で胸を突きました。残された者らはかれらを哀れに思い、おとめの墓の両側に双つの塚を盛り、通りがかる人も謂われを聞いては鶴や鴨のようにコーンコーン、むせびて通りけり。これにておわんぬ。
のあ なるほど。よく分かりました。
アンジー つまり二股やね。
のあ え? 違うでしょ。どっちともつきあってなかったし。
アンジー 競わせたんじゃん。
のあ 違うよ! あたしのために争うなんてって言ってたよ。
アンジー それ競わせてる。
のあ そうかなー。
アンジー 顔面いいんでしょ?
ナギ そうだと思います。
アンジー かなり。
ナギ はい。
アンジー ね? そういうことよ。結局顔? 顔のいい女にはかなわないの? 分かるよ、こうやって男が争ってても自分はなんかフッと透明な横顔して窓の遠く見てるんでしょ、いるいるそういう美人。
のあ いやこじらせすぎでしょ。うちらやるの男の方だし。おーい戻ってこーい。で、どっちがどっちをやれば。
ナギ えーと、いろいろ研究あって、うないおとめとうないおとこは名前からいって地元の同郷で、ちぬおとこがどうやらよそ者であとから登場するようですね。で脈があったのはあとから来たちぬおとこの方と。
アンジー (割り込み)だからさ? この女、答え出てんのに争わせてるわけ…
のあ どうどうどう。
アンジー ぶるるるる。
のあ まぁどっちがどっちでもいいです。のあんじーにお任せで。
アンジー ちぬおとこがいいー。
のあ おい!
アンジー せめてモテる方がいいー。(ばたばた)
のあ バカップルやってるくせに何いってんの。
さや ちょっと待って。どっちがどっちでもいいの?
ナギ え。
さや それじゃおはなし通りじゃないのでは。
ナギ え。
さや だってだって、うないおとめの中では答え出てるんですよね。
ナギ まあ。
さや ぶっちゃけ、うないおとこには脈ないんでしょ。
ナギ そりゃ、あとから来たよそ者の方が有利ですね。
三人 おお!
ナギ え? そうじゃない?
アンジー ひでえ。分かるけど。
ナギ どっちも好きですよ。
三人 は?
のあ この流れでそれはないわ。
さや ないない。
アンジー リップサービスのつもりでひと傷つけるタイプや。
ナギ え? え?
さや じゃあ、じゃあ仮にここでちぬおとこが去っちゃったら、うないおとめとしては、残ったうないおとこでもいいんですか?
ナギ …。
三人 ダメなんじゃーん!
のあ ナギさん分かりやすいですね。
ナギ あんまりいじめないで…。
さや もし初めからちぬおとこが現れなかったら?
ナギ それはうないおとこでいいや。
のあ 分かりやすっ。
アンジー 持てるものの悩みかよー!
ナギ モテないですから。現実には恋愛にあまり希望を持ってないタイプで。
さや そこは持とう?
のあ これうないおとこになった方ツラくないですか。
アンジー ジャンケンかな。
のあ 軽。
さや ていうか、(絶妙の間で)ナギさんどっちがいいんですか。
ナギ えええー! 選べない!
さや そこだいじですよ。
ナギ 無理言わないで。
さや のあさんがいいんですよね。(さらっ)
ナギ !
のあ !
アンジー !!!
のあ さやさんそれダメ!
アンジー ()
のあ 口に出すのはダメ。
さや すみません空気読まなくて。
アンジー ()
のあ そんな目で見ないの。
アンジー 笑うしかないわ。
ナギ でも、彼氏いるんですよね?
アンジー いるけどそのハナシしてると夜になるよ。
さや でもさあ?
ナギ さやさんちょっと黙ってて。
さや いやそうじゃなくて、ストーリーとしては逆じゃない?
三人 え?
さや だから、ここは、どー考えてものあさんに行きそうなところなのにも拘わらず、何故かアンジーさんに行っちゃう方がストーリー的には正しいでしょ。
アンジー ああ、サマセット・モーム的な!
さや そうそう。
アンジー そりゃそうですね。ストーリー的にはね。
さや ですよねー。
のあ 分からん…。
さや だのでやっぱ、はっきりちぬおとこが有利だってするんじゃなくて、やっぱ、見分けつかないくらい似たふたりが争ってることにするのがいいのでは。
アンジー ゆうてあたしら似てないけどね。
ナギ 似てます。
のあんじー え?
ナギ 風貌とか容姿とかは似てないんだけど、その、アンバランスに存在が似てます。
のあ そうですかね。
ナギ 例えばさやさんと私はほんとに似てなくて、似てない者同士が何とかやっていくタイプのコンビだと思うんですけど、のあんじーのはなんかもっとふたりが近い感じ。
さや あーそれは思う。
ナギ うちらのコンビは解消すること前提なんですけどのあんじーは違うんですよね。
アンジー 㐂寿までやります。
のあ おかしいだろ。
アンジー ハッタリで動く世界もあるし。
のあ まーね。
ナギ ということで、似てる前提で進めるのはどうですか。そこで爛惰の歌留多ですが。
アンジー ああそっか!
のあ なに?
ナギ つまりあれ、武士の冠若太郎と由良、なんでしたっけ。
アンジー 由良小次郎。
ナギ あのふたり、ぶっちゃけどっちがどっちでもいいですよね。
アンジー まあBLですからね。
のあ BLかよ。
アンジー 好きに分けてって言われたんで適当に振ってみました。(台本渡し)ここの印ついてる方がのあさん。
のあ これナレーションも読むの?
アンジー そう。
のあ えっと、どんな感じでやれば。
アンジー そう…朗読調になるとかっこわるいんで、そうね、オーバーアクションで。
のあ いつも通りか。
アンジー いつも通りで! ――太宰治作、爛惰の歌留多より「と とてもこの世は、みな地獄」。
のあんじー 不忍池、と或る夜ふと口をついて出て、それから、おや? 可笑しな名詞だな、と気附いた。これには、きっとこんな事情があったのだ。それにちがいない。
たしかな年代は、わからぬ。江戸の旗本の家に、冠若太郎という十七歳の少年がいた。さくらの花びらのように美しい少年であった。竹馬の友に由良小次郎という、十八歳の少年武士があった。これは、三日月のように美しい少年であった。冬の曇日、愛馬の手綱の握りかたに就いて、その作法に就いて、二人のあいだに意見の相違が生じ、争論の末、一方の少年の、にやりという片頬の薄笑いが、もう一方の少年を激怒させた。
「切る。」
「よろしい。許さぬ。」決闘の約束をしてしまった。
その約束の日、由良氏は家を出ようとして、冷雨(ひさめ)びしょびしょ。内へひきかえして、傘さして出かけた。申し合わせたところは、上野の山である。途中、傘なくしてまちの家の軒下に雨宿りしている冠氏の姿を認めた。冠氏は、薄紅の山茶花の如く寒しげに、肩を小さく窄め、困惑の有様であった。
「おい。」と由良氏は声を掛けた。
冠氏は、きょろとして由良氏を見つけ、にっと笑った。由良氏も、すこし頬を染めた。
「行こう。」
「うむ。」冷雨の中を、ふたり並んで歩いた。
一つの傘に、ふたり、頭を寄せて、歩いていた。そうして、さだめの地点に行きついた。
「用意は?」
「できている。」
すなわち刀を抜いて、向き合って、ふたり同時にぷっと噴き出した。切り結んで、冠氏が負けた。由良氏は、冠氏の息の根を止めたのである。
刀の血を、上野の池で洗って清めた。
「遺恨は遺恨だ。武士の意地。約束は曲げられぬ。」
その日より、人呼んで、不忍池。味気ない世の中である。

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